第四幕 お役目と幸せ 其の一
3年前の春、北国のある藩でお鳥は長期の任務を行うこととなる。
お鳥はその時、まだ二十歳であったが長期の任務は既に経験がありお庭番の頭領もお鳥に信頼を置いていた。
通常女が密偵に付く時は目付け役がつくものだが、信頼もあるため弟である元也が密偵兼目付け役としてつくことになる。
旅の姉弟という立場は偵察にも何かと具合がいい。
二人は、難なく藩の重鎮の武家に下働きとしてもぐりこむことができた。
二人の働きは、裏、表とともに優れたものであった。
特に、下働きの仕事については、家のものも舌を巻くほどの出来であった。
気に入られた二人は、家の中でも随分とかわいがられる。
そうして一年もたつとお鳥に縁談が持ち上がった。
お鳥は少し迷ったがその縁談を受けることにした。
縁談の相手が任務に関連した普請場で働いていたのだ。
元也が藩の内政を調べ、お鳥が現場側から内偵する。
そうすることで調べやすくなる、そう考えたのである。
元也は心配した。
「所帯なんかもったら、帰れなくなるぞ。姉さんがいないとこの任務は成り立たない。もし、相手に情が移ったらどうするつもりだよ」
心配する目付け役の弟にお鳥は大丈夫、と胸を張った。
「私は公儀隠密よ。お上の為に生きていることは忘れないつもりよ。今度の任務は私の力が大切なんでしょう。私以外の人には難しいのだったら絶対に失敗できない。何とか証拠を掴んで、江戸に帰らないといけないわ。それには所帯を持った方が何かと都合がいいのよ」
お鳥はそういって弟を説得した。
2年目の春、お鳥は足軽組の喜助と祝言を挙げた。
そして下町の長屋に所帯を持ったのだ。
一緒になった喜助は、優しくて面白い男だった。
お鳥は小さな長屋でせっせと家事をして、喜助の世話を焼き、二人は評判のおしどり夫婦になった。
しかしその一方で弟と連絡を取り合い、密偵を繰り返しながら任務は着実にこなしていく。
そして三年目の春、ついに証拠に近づくことが出来た。
しかし、同時にお鳥の体に変調が出たのだ。
飯を作るときの匂いがどうしても駄目なのだ。
食べても吐きだしそうだった。
喜助はそれを聞いて察した。
「お前、妊娠したんじゃないか」
お鳥は、愕然とした。
妊娠してしまえば、密偵は難しい。
この腹を抱えては江戸にも帰れない。
かといって産まれてくることをまっていては戻る期限を過ぎてしまう。
しかし、夫の前で動揺するわけにも行かない。
お鳥は笑顔を繕って喜助を見た。
喜助はお鳥を抱きしめた。
「子供の名前、決めないとな。男も女も使えそうな名前、寿限無ってのはどうだ」
喜助はそういって、お鳥の背中をぽんぽんと叩いた。
「寿限無?どういう意味?」
「前に、どっかできいたんだ。大切な子供に、それは縁起がよくて長生きしそうな名前をつけようとして、欲張ってしまって長い名前をつけるのさ。寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風行末、やぶら小路ぶら小路、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナー、長久命の長助ってね」
「あはは、何それ」
お鳥は笑った。
「あんまり長いもんだから、近所の連中は名前を言っている途中で用事を忘れてしまうんだよ。うちの長屋の連中にも憶えさせよう。やつらどこまで覚えきれるかな?へたしたら寿限無だけかもな」
「やあだ。そんな名前。お腹にいる間だけにしてよね」
笑っているうちに本当におかしくて涙が出てきた。
喜助も笑顔でお鳥の腹をなでる。
お鳥はつらい葛藤をしていることをひと時忘れた。
ほんの少しでも本心から幸せだと思える瞬間だった。
しかしこの時、喜助の口から明確な喜びの言葉はついになかったのだ。
そのときに少しでも怪しんでいればその後の惨劇は免れたというのに。
翌日、それを聞かされた元也は顔色を変えた。
「どうするんだよ。俺一人じゃ江戸に帰れないぞ。後一歩ってところまできておいて」
元也はギリギリと歯噛みした。
「おろすしかないわね」
「ばかいうなよ。理由もなくおろしたなんて旦那にばれたら怪しまれる。それに子おろしに失敗すれば姉さんだって無事では済まないだろ。俺が一旦江戸に戻って事情を話す。そうして、子供が産まれてくるのを待つしかない。子供の事はとりあえず喜助さんがいるから問題ない。まずは、任務だ」
元也はしかし、心配そうな顔をした。
「姉さん、あいつに情は移ってないだろうな」
「それは大丈夫。いい人だけど、私には任務が第一にあることは忘れていない」
感情を殺したような声でお鳥はそう答える。
しかしお鳥は内心ほっとしていた。
子供を殺すことは嫌だった。
喜助に愛があろうとなかろうと、子供は別だった。
「寿限無。よかったね」
お鳥は小さく呟いて腹をさすった。
元也は「何だって?」と聞き返したがお鳥のうっすら浮かべた幸せそうな笑みに、あきれと喜びが入り混じった表情をした。
しかし、元也が怪しまれずに江戸へ向かう機会は中々訪れず日にちばかりが立っていった。
元也は機会をうかがいながら任務も続けた。
やがて梅雨が明けた頃、江戸へ向かう機会と証拠の品を同時に手に入れることとなった。