忍びの影 其の五
喜助の首は夜になってもそのまま晒されている。
見張りの下男は見物人もなくて、寄って来る蚊を追い払うことに夢中だったが、兵庫達を見ると怪訝そうに身を硬くした。
「そんなに怪しまずともよいですぞ。北町の同心、大堀と申す。この首の知り合いだというのでこちらの御婦人をお連れした。夜中までの熱心な番、ご苦労でありますな」
兵庫は下男にそう話しかけた。
「北町の旦那ですかい。それじゃ安心だな。実は先ほど、見張りがやられておりましてなあ。そいつはいきなり当身くらってのびちまった。まあ、首にひどい悪戯されたわけじゃないからよかったものの、そのおかげで急に俺に番がまわってきたんですよ。俺はまた、その下手人が戻って来たかと思ってひやひやしちまった」
そういって下男はふうと、安堵のため息をついた。
兵庫はその言葉で確信した。
やはり、敵は喜助に接触したのだ。
そしてお鳥の情報を手に入れ、襲いにかかった。
「お鳥さん」
兵庫はお鳥に声をかける。
お鳥は首の前に立っていた。
松明の明かりが、お鳥と晒された喜助の首を照らす。
お鳥が深くうつむくと顔が影の中に隠れた。
深く濃い影の向こうで、慟哭しているようにも、無表情にも見えた。
再び顔を上げたお鳥は、2、3歩足を踏み出すと、ふらりとよろけた。
「危ないっ」
慌てて兵庫はお鳥をかばおうと動いたが、お鳥は片手を上げて制した。
「大丈夫です。もう、大丈夫。ご迷惑を、おかけいたしました」
そういうと姿勢を立て直し、今しがた来た道をまっすぐに戻り始めた。
明かりに照らされたその顔からはいつの間にか涙の跡は消え、目つきが幾分鋭く見えた。
兵庫は一瞬唖然としたが、その後を追いかけた。
「まってよ、お鳥さん」
お鳥は振り返ることなくすたすたと歩く。
その速さは歩いているというよりは、小走りに近いような速さがある。
兵庫はついていくのがやっとであった。
茂みの傍に近づいた頃、お鳥はくるりと振り返って兵庫のほうを向いた。
一瞬、兵庫と目があったような気がした。
しかし、お鳥は兵庫を通り越して後ろの闇に声をかけた。
低く刺すような囁き声であった。
「そこにいるのは、薄雲か?弥生か?どちらでもいい。頭領に伝えてくれ。詳細は私が後から戻って話すが、元也がやられた。あちらの藩も忍びを放ってきた。晒し首の男が下手人だ。私は江戸でやられたが、元也はあの藩の中で殺られた。今回の任務で得た証拠品を今から取りに戻る。そのように伝えてくれ」
兵庫のすぐ後ろで、ふうっという息遣いが聞こえた。
驚いて反射的に振り返ったが、少し空気が動いただけで既にその場には誰もいなかった。
そのままお鳥は兵庫に視線を移した。
兵庫はおずおずと手を差し出した。
手を取って、お鳥と再び長屋へ戻りたかった。
お鳥もまたその手を掴みたそうに、手を差し伸べた。
けれど、その距離は離れていた。
たった数歩の距離なのに、兵庫はそれを踏み出せず、お鳥もまたその道を戻りもしなかった。
やがて、お鳥は困ったように笑った。
「よしましょう。よい夢を見ました」
そういってくるりと振り返り、道を進んだ。
少し後ろを、兵庫も続く。
歩きながらお鳥は話を始めた。
「私のことを少しお話しましょう。でないと、兵庫さんは私のこと訳の分からない女と思ったままですものね。察しのとおり私は隠密です。御公儀の隠密御庭番、女諜報組の頭です。北国のある藩を調べて戻ってくる最中にあの喜助と斬り合いになって、堀に落ちたのです。喜助は堀に落ちて私が死んだと思ったみたいですが、私は喜助がいなくなったのを見計らって逃げました。その後、どうにも体が言うことをきかなくなってしまい、兵庫さんの家に入ってしまったのです。あの時はびっくりさせてしまってごめんなさいね」
お鳥はくすくすと笑った。
長屋にいたころのような優しい口調であった。
「お鳥さんと、あの喜助は知り合いだと言っていたけど、どういう関係だったの?そもそも喜助と斬りあうことになった理由はなんなのさ」
兵庫はずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「びっくりしないでくださいね。喜助は、私の夫だったんです」
「ええっ!?」
兵庫は思わず声を上げた。