忍びの影 其の四
兵庫は慌てた。
「思い出したくないなら、思い出さなくてもいいよっ。ごめん、俺が無神経だった」
そういってまだ震えている背中をそっとさすってやった。
お鳥はきっと隠密だ、兵庫は漠然とそう考えていた。
奉行所にも隠密がいる。
もっとも、こちらは町の中の内偵が専門である。
お鳥の力や、仲間と思しき影からお頭と呼ばれていたことからも、お鳥が地位のある立場ということが分かる。
そしてその仲間が、忍びの者だということは兵庫にも分かった。
ふいに思い出したことに兵庫は総毛だった。
「俺のせいだ。俺がお鳥さんのことをしゃべってしまったから・・・」
虚空を見つめて、自分のしでかしたことを後悔した。
兵庫は、斬首された喜助のことを思い出したのだ。
喜助は敵方の隠密だったのだろう。
思い返せば喜助はお鳥のことを執拗に聞いてきた。
しかも兵庫は愚かなことに、お鳥について知っていることをべらべらと喋ってしまった。
これから死に行く人間に隠すようなことでもなかったし、閉ざされた牢屋では知ってもどうしようもなく、冥土の土産くらいにしかならないと思ったからだ。
でもそれがお鳥のような隠密稼業の人間であったら話は別だ。
どんな方法を使ってでも情報を仲間に伝えようとするだろう。
そしてその情報は外に持ち出された。
それが、さっきの奇襲に繋がったのではないか。
「ごめん、お鳥さん。さっきの奇襲の男達は、あの喜助が最後に差し向けた討手だったんだ。俺が一緒の限り、ずっとお鳥さんは狙われる」
そういって、兵庫は言葉を続けようか迷う。
そろそろとお鳥が顔を上げ、兵庫を見た。
長い葛藤の末、お鳥の手を取った。
「俺じゃ、お鳥さんを護って上げられないんだ。嫌かもしれないけど、記憶を取り戻して仲間のところに戻ったほうがいい。何か、何か思い出したことはないかい?どんな小さなことでもいい」
兵庫は、自分が情けなくて涙が滲んだ。
お鳥を嫁にしたいと豪語したくせに、結局はお鳥を助けることが出来ない自分がいた。
「ごめん、本当にごめん。俺がもっと強かったら。俺が、もっと賢かったら、こんな事にはならなかったのに・・・」
お鳥は兵庫の目にうっすらうかんだ涙をそっと指で払ってやる。
相変わらず顔は青ざめているが、それでもやっと決心がついたというような顔をしていた。
「兵庫さんのせいじゃないわ。でも、兵庫さんにこれ以上迷惑はかけられないわね」
やがて強い声で兵庫に言った。
「晒し首を見に行きましょう。きっとそれで、全て思い出します」
スッと立ち上がると、兵庫のほうを向いた。
「怖い思いをさせてごめんなさい。でも、最後のわがままを聞いて頂戴」
お鳥は手を差し伸べた。
兵庫はその手を取った。
その手は白く細く、折れてしまいそうなほど弱弱しい。
先ほどまでの匕首を光らせ、警戒心に満ちていた隠密の頭とは到底思えなかった。
それほどまでにお鳥は可憐で華奢だったのだ。
お鳥の目からきらきらと光る雫があふれていた。
それは、静かに頬を伝うと、暗がりに落ちていく。
兵庫はまるで夢に浮かされるように歩く。
悪い夢なら覚めてほしかった。
土手へ上がり、対岸の少し離れた場所にあった屋台の明かりが、暗い世界に異物が混じったように鮮やかで明るかった。
木戸が閉まる刻限が近づくと、人はまばらになる。
兵庫達は殆ど人とすれ違うことなく、晒し台に近づいている。
「兵庫さん、私ね、思い出せないんじゃなくて、思い出したくないの。本当は、もう少し深く考えたら記憶は簡単に思い出せるようなところにあるんだと思う。けれど私の記憶は思い出したくもないような深い闇を抱えているの」
お鳥は握った兵庫の手に力をこめた。
「私は怖い。思い出したらこうやって兵庫さんの手を取ることもできなくなるわ。そしてあの楽しかった生活も終わってしまうの」
兵庫はお鳥のほうを向いた。
「大丈夫だって。俺はどこにも行かないし、お鳥さんが記憶を戻したって俺のこと忘れるわけじゃないしさ。もしかしたら、夫や子供もまっているかもしれないんだ。さっきだって、あの人あんたの仲間だよ。その仲間の事、思い出してやらないと。忘れられるってきっとつらいよ」
そういって手をギュッと握り返してやった。