忍びの影 其の三
やがて夜も更けて、二人の友人がそろそろ暇乞いをしようというときであった。
不穏な気配が、兵庫のいる長屋を取り巻き始めていた。
その気配にお鳥がまず気付いた。
部屋の隅においてあった匕首に手を伸ばすと、音をたてずに鞘から抜いた。
それと同時に、一真もその気配に気付いた。
側に置いていた刀をそっと掴み、鯉口を切った。
「どうしたのさ」
兵庫は二人を交互に見た。
「囲まれています」
お鳥が囁いた。
一真もうなずく。
一真は戸から目を離さずにトンと、兵庫の肩を押した。
「俺が突破口を作る。お前らは隙を見て逃げろ」
鋭い目をしてそう囁くと、行灯の火を吹き消した。
同時に戸の向こうから刀を抜く音がいくつも響いて、乱暴に戸が開いた。
黒装束の男達が塊となって、四人を襲う。
「安っ!二人を援護しろ!」
一真は刀を抜いて敵に向かって行った。
同時に安次郎も刀を抜いた。
降り注ぐ刀を、流れるようにかわしながら兵庫とお鳥を戸口へとじわじわと誘導する。
しかし二人が戸口を出たところで安次郎の背中に一人が襲い掛かってた。
素早く振り返ると安次郎は刀を繰り出し、それを受け止めた。
そのまま二、三合わたりあう。
反射神経のよい安次郎ではあったが、それ以上に相手の剣は速い。
退路を作るため、守りに徹していた安次郎の刀はじわじわと圧されつつあった。
安次郎は「はあっ!」と短い気合を入れた。
残って一真を援護する覚悟を決めたのだ。
「こいつら強い!兵庫はお鳥さんを連れて逃げろ」
そういうと、改めて安次郎は目の前の敵と向き直った。
兵庫はお鳥の手を取って、無我夢中で走った。
葦や蝦蟇のおおい茂る河原に隠れるように逃げ込むと、兵庫は喘ぎながらへたへたと座り込んだ。
お鳥は青ざめたまま、警戒心を解くことはなく辺りをうかがう。
「なんで?なんで俺があんな手練れに襲われなきゃいけないの??」
兵庫は混乱する頭を抱えながら考えていた。
お鳥は追っ手が来ないことを確認して警戒心を少し緩めたらしく、匕首を持っている手を下ろした。
途端に、はっと思い出したような顔をした。
「寿限無。どうしよう。家の中に、置いてきたままだわ」
それまでの騒ぎにも動じなかったお鳥はここに来て、おろおろと取り乱す。
そのとき、後ろの草むらでカサリ、と何かが動いた。
反射的にお鳥は姿勢を猫のように低くして、匕首を目の前にかざして身構えた。
しかし、動いたものがこちらを襲ってくる様子はなかった。
しばらくの静寂の後、低く囁くような女の声がした。
「お頭。私です。随分と探しましたぞ。何ゆえ、連絡を絶たれましたか」
お鳥は困惑したように、草むらを見つめる。
「誰?」
敵意がないことを感じ取り、匕首は下げたが、警戒を緩めることはなかった。
草むらの先から答えはない。
向こうも困惑しているのかもしれない。
兵庫は草むらに向かって言った。
「お鳥さん、記憶をなくしているんだよ。それよりあなた方は何者ですかな」
草むらがまたカサリ、と音をたて、気配が消えた。
どうやらいなくなったらしい。
兵庫は、お鳥を見た。
お鳥は動揺していた。
「お鳥さん。何か、思い出せない?俺にはあんな手練れに襲われる覚えがないんだ。きっとお鳥さんの忘れている何かにあると思うんだよ」
兵庫は、伺うように上目遣いで聞いた。
お鳥は戸惑いと苦しみの浮かんだ目をして兵庫を見た。
刹那、その場にガクンと崩れ落ちて自分の肩を抱いた。
「思い出したくない。何も思い出したくないのです!」
唇は蒼白になり、体中を振るわせる。
喘ぐような息をはいてうずくまると、やがてすすり泣く声が聞こえてきた。