忍びの影 其の二
失態から一転、褒めと賞賛をもらった兵庫はしばらくの間、気持ちよく過ごしていた。
今日にいたっては、南町の見習いたちも兵庫を手本にするようにと言い含められているという噂を聞いたのだ。
丸い顔を、さらにまあるくふやけさせて、にやにやと笑いながら家路についていた。
これもお鳥のおかげである。
しかし肝心のお鳥の記憶に結びつくような手掛かりはやはり得られなかった。
お鳥は死刑の決まっている喜助に会う事をためらった。
何も思い出さなかったときの絶望感もあるのかもしれない。
それに、喜助の伝言を兵庫がつたえてもお鳥はただ首を傾げるばかりであったのだ。
しかし喜助は寿限無地蔵を知っていた。
きっとこれが手掛かりになるだろうと、兵庫は新しい希望をもっていた。
家の戸の前に立つとお鳥が待ち構えていたように戸を開けた。
「お帰りなさい。お友達がきてますよ」
「友達?」
兵庫が中を覗くと四畳半には一真と安次郎が座っていた。
「よお」
二人が軽く手を上げる。
お鳥との時間を邪魔されて、少し兵庫は膨れっ面になる。
「何しにきたんだよ」
「怒るなよ。評判の美人を見に来たんだよ。それにしても、本当に色っぽいなあ。俺んちに来てくれればよかったのに」
そういって、安次郎はお鳥のほうを向いた。
「なんなら、今からでもうちに来ませんか?うちの方が広いし、家事をする必要もありませんよ」
「こら、安!」
兵庫が睨んだ。
安次郎はいい男だ。お鳥がそっちへ転ばないとも限らない。
安次郎の言葉にお鳥はくすくすと笑いながら茶を運んできた。
「折角ですけど、体を動かしている方が性に合うんです。兵庫さんはお優しいし、それで十分」
そういうと兵庫に水瓶の汲置き水がなくなった事を伝え、外に水を汲みに行った。
「うらやましいくらいの美人だ。しかもありゃ、兵庫にほれているな。くそっ!なんでこんな狸に」
そういうと、安次郎は兵庫にふざけて飛び掛った。
「なんだよ、八つ当たりするなよっ。それに狸って言うな!」
兵庫も受け返し、二人はきゃっきゃとじゃれあう。
実際、安次郎より自分を選んでくれたことはうれしいことであった。
しかし、そんな中で一真は厳しい顔をしていた。
「兵庫。あの御婦人は嫁にするのはやめておけ」
兵庫は暴れるのをやめて、一真を凝視した。
「なんで?いい人じゃないか。それに、俺はもう心を固めているんだ。俺は近々にでもお鳥さんに嫁に来てくれるように頼もうと思っているんだ」
一真は首を振った。
「あれは、普通の女じゃない。もっと過酷な世界を生きている。隠密、間者の類か、あるいは盗人か。とにかく日なたの存在ではない」
「なんで、そんなことがわかるんだよ」
困惑したように、安次郎が一真に問う。
「足音だよ。全くしないんだ。土間でも、畳でも歩いているというのに音がない。あれは、訓練されたものの歩き方だ。それに兵庫が帰ってきたとき、兵庫の足音だけを聞き分けて出迎えに出たんだ。それまでに何人もの人が通っていたのにもかかわらず、だ。生半可じゃない鍛えられ方だ」
冷静な目をして一真は言った。
兵庫は、ぶるぶると小さく首を振った。
心臓が一真の言葉を拒否しようとバクバクと音をたてている。
「ち、違うよ。だってお鳥さん、やさしいし、きれいだし、よく働くし・・・」
言いながら、違うといえる根拠がないということに気付く。
お鳥のことで言えることは、やさしい、きれい、サクサクと動くことしか知らない。
反対に、お鳥には怪力がある。それに罪人と知り合いのようだった。
そもそも、始めは斬り込まれていたのだ。
普通の女じゃない根拠はたくさんある。
兵庫は青くなった。
しかし、まだ決まったわけではない。
軽業師だって、そういう歩き方をするものがいる。
耳だって、人よりいいだけかもしれない。
兵庫は顔を上げ、青ざめながらも一真に向かった。
「たとえお鳥さんがどんな運命もっていても、俺はひるまないね。俺は、お鳥さんと一緒にいたい。それさえ、かなえられればいいんだ」
兵庫は、自分の口からついて出た言葉の重さを改めて思い知らされた。
一真は「それならばそれでいいんじゃないか」と呟いた。
やがて、お鳥が大きな水瓶をひょいっと担いで戻ってきた。
その姿を見て、安次郎はぽかんと口をあけていた。