第4話 狂乱のガーディアン
ゲートの境界膜を抜けた瞬間、鼓膜を打つ気圧が変わり、肺を満たす空気が濃密なマナの匂いへと変質した。
そこは、見渡す限りの大樹海だった。
空は、地球ではあり得ない紫色と橙色が混ざり合った極彩色。
頭上には、物理法則を無視して浮遊する『浮き島』の群れが、巨大な岩塊となって雲間を漂っている。
遠くからは、聞いたこともない猛獣の咆哮と、風が奏でるような植物の衣擦れの音が響いていた。
ここは異世界『ヴェイル』と呼ばれている。
アキラは大きく息を吸った。
「ふぅ……、やっぱり僕はこっちの空気の方が好きだな」
腰に当てたアキラの腕にシュナがスッと手を回す。
「……私も人界より、こっちが好き」
「まだ来たばっかりだよ」
「約束は約束よ」
――約束。
主従関係を結んだアキラとシュナであったが、彼は「主従」の関係は性にあわないと拒否。代替案の「パートナー」としての関係をシュナに提案した。
アキラにとってのパートナーの意味は「助手」を意味していたが、シュナにとってのパートナーは「恋人あるいは妻」を意味していた。
主人が宣誓した命令は絶対。
彼ら双方に刻まれた契約の刻印もその日、変化してしまった。
抗えないと分かったアキラは人前では主従の関係を振舞うことを約束として、刻印にねじ込むことで体裁を整えたが、結果として、ツンデレな竜姫シュナが完成してしまった。
「分かってるさ……しかし、何度見ても素晴らしい。キミもそう思うだろ、シュナ」
アキラは、年季の入った大型のリュックのベルトを握りしめたまま、感嘆の息を漏らした。
その瞳に映っているのは、壮大な景色そのものではなく、足元に広がる名もなき植生だ。
「見てくれシュナ。これは『王冠カビ(クラウン・モールド)』の亜種だぞ。ほら、菌糸が王冠のような形に発光しているだろ?ただ、これは亜種だから王冠の形が少し違うんだ。地球なら湿度80%以上の魔素溜まりでしか培養できない幻の菌類が、ここでは雑草のように自生している!」
アキラは子供のように目を輝かせ、膝をついてルーペを取り出そうとする。
だが、シュナはアキラからパッと手を放し、その場から動かない。
彼女は鋭い視線を森の奥、鬱蒼と茂る木々の闇へと向けていた。
「アキラ。……観察は後で。風の匂いが変わった」
シュナの声に含まれた警告の響きにアキラの手が止まる。
彼はゆっくりと立ち上がり、眼鏡の位置を直した。
「……ああ。イヤな匂いがする」
アキラもまた、視線を森の奥へと向けた。
そこには、幅数メートルにわたって木々がなぎ倒され、地面が黒く焼け焦げた道と、その奥には広場が出来ていた。自然災害ではない。明らかに、強大な魔力による破壊の痕跡だ。
「『使徒』……かな」
「……おそらく。この焦げ臭さ……通過して数日ってところね」
シュナが焼け焦げた大木の幹に触れ、煤を指先で拭う。
先行する敵、闇の魔導士を崇める狂信者たち。
彼らは隠れることすらしていない。
圧倒的な暴力で障害を排除し、一直線に目的の場所――アーティファクトが眠る地へと進軍しているのだ。
「部長が言っていた最初の座標は、この森を抜けた先にある『賢者の遺跡』だ。だが……」
アキラはリュックを持ち直し、破壊された森を見渡した。
無残に焼かれた植物たち。
その光景に、アキラの瞳の奥で静かな怒りの色が揺らぐ。
「奴らはただ進んでいるだけじゃない。通った道の生態系を根こそぎ焼き払っている」
「魔道省が動いてる事に気付いて、追手を阻むため。あるいは……ただの愉悦でしょう」
シュナの言葉に、アキラが短く吐き捨てるように「下劣だな」と言った、その瞬間だった。
ズウゥゥゥゥン……!!
大気を震わせる重低音と共に、地面が激しく隆起した。
魔鳥たちが一斉に飛び立ち、森の空気が凍りつく。
「――来ます!」
シュナがアキラの前に立ちふさがる。
森の奥、焼き払われた道から姿を現したのは、山のように巨大な『獣』だった。
六本の脚を持つ、巨大な狼のような姿。
その体高は5メートルを下らない。
この森の生態系の頂点に君臨する『森の主』だ。
「……おとなしいガーディアンが怒り狂っている」
アキラは左手のトランクを強く握りしめた。
その姿は異様だった。
美しいはずの毛並みはドス黒い粘液に覆われ、全身から『黒い茨』のようなものが突き出し、肉体を内側から食い破っている。
「グオオオオオオオオオッ!!!」
獣は苦悶と狂気が混ざった絶叫を上げると、見境なくアキラたちに向かって突進してきた。
その瞳は赤く濁り、理性の光は欠片もない。
「狂っている……? いえ、闇の浸食を受けているのね」
さっきまでアキラに甘えていた瞳が一瞬で爬虫類の縦孔へと変わり、愛らしい右手が、鋼鉄をも引き裂く凶悪な『竜の爪』へと変貌する。
闇の浸食は敵が残していった呪いの罠だ。
森の主を汚染し、追手を始末するための番犬に仕立てたのだろう。
「アキラ、ガーディアンを排除します。もう既に手遅れです」
シュナが迎撃の構えを取る。
SSランクの彼女なら、狂った獣を殺すことなど容易い。
――だが。
「ダメだ、シュナ。殺すな!」
アキラの鋭い声が響いた。
「アキラ!? でも、アイツは!」
「よく見ろ。首元だ」
アキラは迫り来る巨大な爪にも怯まず、冷静に観察眼を光らせていた。
獣の首元には、肉に食い込むように埋め込まれた『黒い水晶』が脈打っており、そこから皮膚を隆起させながら、根のような触手が脳へと伸びている。
「『増魔の楔』だ。あれが神経系に根を張って、宿主を暴走させている」
アキラはリュックを地面に下ろし、トランクを広げ、魔草の調合セットを掴んだ。
「シュナ、ガーディアンは敵じゃない。まだ間に合う!」
暴走する巨大獣が、目の前まで迫る。
アキラは不敵に笑い、手にした試験管のコルクを親指で弾き飛ばした。 中から溢れ出したのは、攻撃魔法の光ではなく、鼻を突くような強烈な消毒液の匂いと青白い煙が立ち上った。
「ガーディアンは森の生態系に欠かせない。それに助ければ、道案内くらいはしてくれるかもしれないだろ?……シュナ、30秒だけ抑えてくれ。その間に『寄生根』を根絶やしにする薬を作るから!」




