第2話 竜姫の契約と消えない傷跡
意識が、深い水底から浮上するようだった。
竜が重い瞼を開けると、全身を苛んでいた呪いの痛みは消えていた。
目の前には、ランプの明かりの下、採取した植物の標本をピンセットで整理している男がいる。
(……生きている)
(あの人間が、私を一瞬で無力化し、呪いまで解呪したというのか?)
竜は理解した。
この男は、ただの人間ではない。魔術という理の外にいる存在だ。
「……人。なぜ私を助けた。」
その声に、顔を上げたアキラは少し目を見開いていた。
「――驚いた。レッドドラゴン程の上位種は人語を話すことがあると聞いてたけど、本当だったんだね。」
凄惨な儀式やドラゴンの急襲にも驚かなかったアキラは、人語を話すドラゴンには少し興味を表した。
「なぜ、助けたと聞いている」
状況に関係なく、メモ帳に何かを書き込むアキラに竜は返事を催促した。
「……あぁ、ごめん。悪い癖だと分かってるんだけど、つい……」
そう言うとメモ帳を閉じた。
「……助けられる技術と知識を持っていた。だから助けた。それだけ」
「……それだけ?」
「そう、とりあえず、キミが動けるまでは面倒をみる。キミの生命力ならあと数時間もすれば動けるだろ。そうしたら、僕も自分の仕事に戻る。――魔草の研究者なんだ、僕」
アキラは顔も上げず、採取した魔草を種類ごとに分けながら答えた。
「……研究者。そうか、私の主は研究者か。戦いとは無縁の生活となりそうだ」
竜は皮肉混じりに笑った。その言葉にアキラは顔を上げた。
「ん?どういうこと?……キミを連れて歩くなんて言ってないよ?」
「そうはいかない。お前が私を助けた事で、既に竜族の『掟』が魂に焼き付くように共鳴しはじめている」
竜は目をすこし細めつつ、続けた。
『戦いに破れし竜、または命を救われし竜は、その者を主とし、生涯の忠誠を捧げよ』
「これが竜族の抗えぬ血の掟だ。今日より、お前が私の主だ」
竜の金色の目とアキラの茶色の目が交差する。
「それは竜同士の話じゃないのか?……断ったら?」
アキラが小さく呟く。
「相手は定義されていない。竜であろうと別種族であろうと。そして、掟の解除は『主人の死』か『私の死』か、『主人を殺して竜も掟の呪いによって消滅』するしかない」
ランプの灯りがゆらゆらと揺れる中、沈黙が落ちる。
「……つまり、『竜を連れて歩くか、二人揃って、ここで死ぬか』ね」
「理解が早いな、人間」
「選択肢なんて最初からないじゃないか。……分かったよ、掟に従う」
アキラは溜息交じりに、そう言うと分別を終えた魔草をリュックに仕舞い、竜の首元の止血用ロックモスの貼り替えを始めた。
「……でもさ、僕の家は人界だ。きみらのいるヴェイルじゃない、レッドドラゴン連れては歩けないよ」
回復具合を診るアキラに竜は答えた。
「――問題ない。人間に擬態することが出来る。それならば、共に生きていけるだろう?」
「……随分、器用だね。逃げ道なしか」
アキラは肩をすくめた。
「ただ、私には人間に関する詳しい知識がない。なので、お前の記憶を借りるぞ」
竜はアキラの目を見つめた。
意識の触手が、アキラの思考の防壁をすり抜け、心の最深部――決して誰にも触れさせたくない、鍵をかけた記憶の箱へと侵入してくる。
『ッ……そこは、入るな……!』
深層心理下のアキラの拒絶も虚しく、カッとドラゴンの胸に刻古の契約印が浮かび上がり、紅蓮の光を放つ。
それと同じ光がアキラの左胸にも灯り、アキラは「うっ」と一瞬だけ、うめき声を上げた。
光はみるみる拡張し、竜を包み込む。
光の渦の中で竜の巨体は収束し、人の形へと再構成されていく。
「……まぶし――」
アキラは眩しさに目を細め、手で顔を覆った。
やがて、ゆっくりと光が晴れる。
そこに立っていたのは、魔力で生成した薄布一枚、透き通るような肌と、炎のような赤髪を持つ一人の女性だった。
その顔を見た瞬間、アキラの動きが凍りついた。
「…………、ま、真冬?」
持っていたピンセットが、石畳に落ち、カランと乾いた音が響く。
アキラの瞳が大きく見開かれ、呼吸すら忘れたように、その場に立ち尽くしていた。
その姿は、決して彼が忘れる事のない女性の姿、そのものだった。
柔らかく微笑む口元も、泣きぼくろの位置も。
かつて失い、二度と会えないはずの最愛が、そこにいた。
アキラの表情は、驚きを超え、何か信じがたいもの――あるいは、決して見てはならない幻影を見たかのように青ざめた。
「マスター。私の名はシュナと申します」
女は、恭しくその場に跪いた。
「契約は成されました。この命尽きるまで、貴方様とともに」
契約の成立とともに容姿だけではなく、口調すらも変化していた。
シュナは顔を上げ、アキラを見つめる。
だが、アキラは何も言わない。
ただ呆然と彼女の顔を見つめ続け――やがて、苦しげに視線を逸らし、拳を強く握りしめた。
「…………な、なぜ、その姿なんだ」
絞り出すように呟いた。
「貴方様の記憶の中で最も存在感が強かった女性の姿をお借りしました。」
シュナはそう答えるが、アキラの本当の問いの意味を彼女は理解できていなかった。
「この姿はお気に召しませんでしたか? 記憶の通りに再現したつもりですが……」
その言葉にアキラの心はまるで、悪意なく傷口に塩を塗られたような感覚を覚えた。
アキラは乱暴にピンセットを拾い上げると、逃げるように背を向けてトランクを閉じ始めた。
「……ハハ、これは……タチの悪い悪夢だな」
無理に繕ったその笑い声は、雨に濡れたように震えていた。
こうして、魔草学者アキラと、深紅の髪を持つ竜姫シュナの奇妙な主従関係が始まった。




