3-01.雨の始業式と群像
数日後、始業式の日。
講堂は雨の匂いで満ちていた。
入学式は奇跡的に止んだらしいけれど、正門から校舎までの並木道は、泥を帯びた桜の花びらのカーペット。新入生には少し可哀想だったと思う。
丸い屋根にぶつかる雨音が反響する。舞台では校長の声が丁寧に春を告げているのに、耳の奥は水の中みたいにこもっていた。
「アン、おはよう!」
雨音を断つ明るい声。私は顔を上げる。
「ええ、おはよう、ソフィア。……声、響いてるわよ」
桜色の髪がふわり。私が笑うと、彼女は唇を尖らせ、それでもすぐ笑った。
「だって三年よ? 今年で“終わり”なんだから」
“終わり”。その三文字に胸の内側が小さく反応する。雨脚が一段強くなる。目を伏せた。
(学園生活としては、たしかに終わりの年)
けれど、本当に最後かは──ソフィアは息巻いているけれど、私のほうは、不安がないと言えば嘘になる。
ただ、幕開けからこの灰色の空。雨。
毎年の天気を逐一覚えてはいないが、この学園の桜は遅れない。
過去の周回でも、なかった。
(ズレがあるのは事実……でも、まだ決めない)
「アン、こっちこっち!」
サシャが手を振る。ショートの茶髪がぴょんと跳ね、隣ではブルーノがプログラムを整然と二つ折りにしている。
「サシャ、おはよう。ブルーノ君も」
「おはよう、アン。外にいたのかい? 上着が濡れている」
「へへ、タオルあるよ。ほら」
タオルを受け取りつつ、私はブルーノの横顔を見る。整っている。そこに、以前より柔らかな芯が加わっている。かつての周回でソフィアと恋人になった時の彼に近い。
「顔色が優れませんわね、アレス様」
背後から気遣う声のローゼリア。
「気にするな」
アレスが肩を鳴らす。赤い髪に水滴が光った。雨が叩く天井を睨んで舌打ち混じりに言う。
「この雨で気分が悪いだけだ。入学式の桜を台無しにするとは、空の趣味が悪い」
「空に八つ当たりか。らしくないな」
前列でサーチェスが振り向く。金色の目はまっすぐ。今年から学園騎士団の隊長就任で、さらに気配が頼もしい。
「足元が滑りそうだ。帰りは気をつけろ。アンも、ソフィアも」
「そうね」
「ありがとう、サーチェス」
私は頷き、ソフィアは微笑む。
その瞬間、周囲の視線がほんの少し彼女に寄る。
私は彼女と周囲の間に半歩ずれる。気づく人はいない。けれど、それだけで視線は散る。
式が終わっても雨の勢いは変わらない。講堂から教室へ。正面玄関を抜けると人の流れに押されそうになり、前を行くソフィアの肩越しに階段の踊り場を見上げた。
一昨年の冬の影がかすめる。
ここでソフィアは突き落とされかけた。悪役令嬢は手を出さなかったのに、別方向から火の手が上がって──
(……でも、超えた。あれは、私にとってはじめての“勝利”だった)
それは胸の奥でまだ熱い。
渡り廊下で、遠くの裏山の線を見る。去年の夏の合宿、霧のなかで誰も消えなかった。
(ソフィアが“みんなと分けて”守った。そして“恋なしで先輩を救うこと”も)
もしかしたら、と思ってしまう。今年も、何かが変わるのかもしれないと。
(でも、それならもうちょっと明るい兆しであってくれればいいのに)
教室は湿った木の匂い。窓際は音がうるさく暗い。視界の広い中段を選ぶと、右にソフィア、左にサシャ、サシャの斜後ろにブルーノ。ローゼリアは斜め前に音もなく、アレスは最前列端にどかり。サーチェスは通路の折れ目──何かあれば最短で動ける位置。
「──新学年の担任は私だ。ディーン・ウィンディ。つまり変わらない」
先生が抑揚のない声で始業を告げる。時間割、試験、それから対外行事。
「各国の魔法学園が集う共同演習だ。危険はない。ただし──力量と設計を“外”に見せる舞台でもある」
「あれね、交流戦」
ソフィアが小声で私を見る。
「ええ。文化祭や去年の祭りより規模が大きいわ。……注目も浴びる。気をつけて」
「うん」
「他国のやつらと競うのか」
アレスが鼻を鳴らす。
「面白そうじゃねえか。ちっとは遊べそうだ」
「遊びじゃない」
サーチェスが即答する。
「訓練の一環だ」
「お前はそういうところが堅いんだよ」
「誉め言葉と受け取っておく」
教室の空気が少し緩む。三年にもなれば皆も慣れている。
ローゼリアが、ちらりとこちらへ。
「アン。あなた、今年は何をなさるおつもり?」
「普通ですよ。授業を受けて、友達と過ごして、必要があれば準備をするだけです」
「ふふ……“必要”の範囲、あなたの場合は大きすぎる気もしますけど。……無理なさらないでね」
「ローゼリア様こそ、今年は生徒会長ですよね。倒れないように」
「ええ。でも、わたくしには貴女からとアレス様から頂いたお守りがありますから。大丈夫ですわ。それに、仕事はひとりでするわけではありませんもの」
そう言って、柔らかく口角を上げた唇に、ローゼリアはレースの耐火手袋を嵌めた指先をそっと当てた。
プリント配布が終わるころ、窓の外がわずかに色を落とし、灰色の雲の層の向こうで光が動いた。
胸の奥で古い記憶がきしむ。
「対外行事の出場は──騎士隊と、昨冬の成績上位者からの希望制。準備委員も同様。放課後から生徒会主導で始動だ。すぐ始まる」
ざわめき。サシャの目が輝き、ローゼリアは顎をわずかに上げ、アレスは前のめり。
役員のブルーノ、アレス、ソフィア、ローゼリアは準備から確定、サーチェスは代表。成績で見れば、サシャや私も“圏内”ではある。
「アン、出る?」
サシャが聞いてきた。
「出ない。委員は入る。裏で足りないものを埋める係」
「つまり例年通りね」
ソフィアが薄笑いで呟く。
「そういうの、頼りになるんだよねぇ」
サシャが自身の胸元を撫でながら笑う。
「私も委員かな」
ブルーノが短く。
「ふたりが入ってくれるなら生徒会としては助かるよ」
「おい、オーシャン」
アレスが振り返る。
「またトップ狙いか」
「検討中だよ。努力の仕方は変えないけどね」
「面白ぇ。退屈させんなよ」
「君もね」
この二人も一年の頃に比べたら随分とお互い角がとれた。
「アレス」
サーチェスが名前を呼ぶ。
「先生の話が終わってない」
「チッ……」
周囲から微かに笑い声。
そのあとはスムーズに委員や係が決まり、終わりの鐘が鳴った。締めの一言、椅子が引かれる音、笑い声──
「アン、ソフィア、お昼、一緒に食べよ?」
サシャが元気に立ち上がる。
「いいけど今日は混むわ。外は足元が悪いし、購買通りのカフェも今日はまだ開いてない」
「じゃあ、廊下の端っこで!」
「サシャ、床は冷たいわよ」
カバンを持ちながら、呆れた顔をするソフィア。
「じゃあ敷物持ってくる!」
「それは助かるわね」
笑いながら頷いたところで、ローゼリアが立ち上がり、近づいた。
「アン、先日の“化粧水”、改良版はございます?」
「あります。香りを弱めたものも試してほしくて」
「まあ。では今夜、寮のサロンで」
「わかりました」
柔らかく目を細めたローゼリアは、周りに見えない程度に私たちに小さく胸の前で手を振ると、教室の前で待っていた他家の令嬢と去っていった。
後ろからブルーノが苦笑混じりに近づく。
「……彼女も君も、いつも忙しいな」
「ええ、まあ……」
──そのとき、遠くで一度だけ雷鳴がした。振り返るほどではないが、背筋のどこかが反射する。
目を閉じ、ひとつ数えて開いた。
(早く去って)
「アン?」
「大丈夫。……お弁当、今日は甘いものも入ってる?」
「あるよ! 見て、苺のサンド」
「じゃあ急ごう。サシャが戻る前に場所を取らないと」
笑いながら、私たちは廊下へ連れ立った。
次回【春の嵐に伏す】




