3年-序幕の序.雨夜の火
三年目プロローグ
雨が細く立っていた。町はずれ、石切り場の跡に寄り添う黒い小屋。周りに灯りはなく、隣家もない。風下は谷。
その人影は一度だけ空を見上げた。
雲の向き、匂い、足音の遠さ。これから実行しようとしていることをするのに十分だった。
影は、小屋の前まで来ると指先で小さな“静音”の印を切り、金具の響きを一瞬だけ鈍らせ、閂を外す。
一歩踏み入れると、靴先が、床に転がっていた空き瓶を蹴った。
中は湿った麻と油の匂いにまみれている。棚から床にまで散らばる眠り薬の瓶、縄、荒れたベンチ。壁には名のない地図。
奥の部屋から灯りと複数の話し声が漏れている。影は素早く眠り薬の数をかぞえ、ひとつだけを手に取る。
忍足で奥の部屋へ向かう途中、床に設置された鉄の輪と巻き台を見る。
縄を輪に通し、台で巻けば縄が固定される——人を縛って|止めるための仕掛け。床の色がそこだけわずかに赤黒い。
奥の部屋の入り口に辿り着く。伸びている灯りの裾に入らない陰に身を一度隠す。蓋を開け、中の粉をひとすくい、起こした“水”に溶かしながら、中を覗く。
部屋には三人の男。二人が奥で立ち話し、一人が手前テーブルで酒を飲んでいる。
まず手前の一人からいく。背後から近づき、そっと首に氷の刃を。
驚いた息は、即座に口元を覆った水膜に吸われる。暴れは一瞬。ごぼり、と液体を飲み込めば、まぶたが落ちる。椅子ごと倒れる。
残る顔が驚いてこちらを見る、その前に間合いを詰める。方法は同じ。
ふたり、さんにんと意識が沈む。縛る。目は骨に食い込まない強さ、しかし決して解けない結び。
息で冷気をひと口混ぜると、外へ運ぶあいだに雨がさらに結びを固めた。
影は、小屋に戻る。台の下から革表紙の帳面を見つけ、開く。最近聞いたことのある行方不明者の名が、町と日付で刻まれている。別の束には、海沿いの小港の印。
帳面と印の袋を木箱に入れ、頁を開いて重ねる。指で薄い照明符を一枚灯し、木箱の表面に貼って外の三人と少し離した場所へ置く。暗くてものちに来る者の目に入るように。
影はもう一度中へ。奥の間に、折りたたみの檻。中は空。短く息を吐く。ここは根を残す造りだ。
炉に乾いた薪が積まれている。親指を弾く。火が小さく起き、薪へ移る。風下を確かめ、出口へ燃え筋を一本通す。雨が広がりを鈍らせるあいだに、壁の合わせ目へ赤が這いだす。これは合図。そして、再興を断つ火でもある。今夜で終わらせる。
雨脚が少し上がる。影は倒した三人の脈をもう一度だけ確かめる。生きている。
遠くで鐘が小さく鳴る。誰かがこの火を見たのだろう。
油は足さずとも、壁の合わせ目に赤が走る。
影は一歩下がる。煙は起こした風に乗って谷へ抜ける。
捕縛は街がやる。裁きも、街がやる。影の役目はここまでだ。
そうして、背を向ける影はまだ知らなかった。
ひとつ芽を折れば、別の茎が伸びることを。
火の匂いが、雨にほどける。
それから、のちに知る。
押収した帳面の照合が終わった頃。あの小屋の連中は——“あの子”に関しては——まだ何も準備していなかったことを。
名前はどこにも載っていなかった。
そして季節が進み、『あの夜』には別の手が立った。
安堵は一枚、肩から風下へ滑り落ち、未着手の相手に先に火を入れたという罪悪感だけが残った。
慰めはただひとつ。見えていた芽を摘んだ分、どこかで名も知らぬ誰かの呼吸を延ばせたかもしれない——それだけだ。




