2-27.礼拝堂の下見と初めての発露 〜アンside〜
聖夜の前夜。月は見えない。礼拝堂の扉を押すと、軋んだ音を立てて内側へ開いた。
その隙間に滑り込むように中へ忍び込む。冷えた石の匂いが喉の奥へ落ちてきて、胸がきゅっとすぼんだ。
音を立てないように歩いて最前列のベンチの背をそっと押す。
ぎっ、と乾いた音がひとつ——それを聞いてから、息を溢す。
ちかりと祭壇の上空で、何かが瞬いた。
(……ここでやるのね)
一度、目を閉じる。蘇るのは、私にとって最初の夜の沈黙だった。
声も足音も帰ってこない夜。寮に戻らないソフィアを探して、大人たちを呼び、灯りを分け合って学園を往復した。そして見つけた場所が、この裏手。
(ソフィアの前では、なんでもない顔をした)
目を開ける。祭壇横の燭台の火が揺れて、足元の影を長くする。
足場と、監視具の見張り鈴と据え置きの受信機の配置、風の逃げ道。ぐるりと見渡してから、沈むように片膝を床につける。
(けど)
喉が細くなる。体が勝手に震えるのを、抑えつけるように肩を掴んで、指先で床をなぞる。
石目は冷たく、まっすぐだ。
祭壇とベンチの間のスペースに白いチョークを走らせる。薄い楕円——書きながら、あの崖下の湿った空気が背中から何度も蘇る。
(怖い——でも、やる)
書き上げ、手をポケットの内側へ。メリッサの小袋が触れる。……けれど、指はそこを素通りして、さらに奥へ向かった。
握ったのは、過去に鍛錬で使った小粒の魔石——面取りをしすぎて丸い。指が勝手にその縁を撫でる。喉を通りやすいように、という悪い癖。
自嘲ぎみた息を吐いてから、ゆっくりと天井を仰ぐように見上げ、石を口に当てる。
恐怖が一瞬だけよぎる。
それでも——あとは喉へ落ちるだけ。
唇を開いた、その時だった。
「それは、やめとこうか」
戸口からの声に体が跳ね、石が歯に当たり、かち、と鳴った。
振り返ると、庭師さんが立っている。革手袋に、土と草の匂い。
「……何を、しようとしてたか、わかるんですか」
私はゆっくり立ち上がった。
平気な声を装ったが、薄いのは自分でもわかる。
「わかるよ。見てたから。君が『ここまで』を越える時の肩の上がり方。喉の動き。これが初めてじゃない」
庭師さんは静かな目をしたまま答えた。
私の奥から、は、と乾いた笑いが漏れる。
「……知ってたんなら、どうして今回は止めるんです」
「君がそれを必要としていたからだよ。支柱が足りない木は、まず伸びる方向を覚える必要がある。——でも、もう違う。適性も魔力も、君の体は充分に満ちている。これ以上は負担になるだけだ」
「っ……でも」
胸を押さえる。
「もしここで私が失敗したら、フィン先輩を助けられないかもしれないんです。私がちゃんとやらないと……っ」
喉が熱くなり、声が少しぶれた。
庭師さんは首を振る。
「飲石鍛錬は、魔石を嚥下して回路に刻む外法。やってやれないものじゃないけど、臓を削り、回路を焦がす。身をもって知ってるはずだよ」
言われて、胸の上を握る。
飲むたびに腑を焼いたこと。焼きながら石の持つ魔法を発動し続ける、それで体に刻まれる。あの痛みを覚えてないわけがない。
「でも——」
食い下がろうと口を開きかけた時だった。
「だめだ」
短く、強い言葉だった。かちりと歯が噛みあい、初めて聞く温度で、息が止まった。
「っ……怒ってるんですか?」
「止めているんだ。怒りたいのは、君の体に傷が残るのを想像した僕だ」
庭師さんの目を見た。胸の奥が、ちり、と鳴る。動揺が心臓をひと巻きして、視界が斜めに傾く。
(あ……)
わかっている。心配してくれてる。
なのに——
「あなたに、何がわかるんです」
指の隙間からこぼれ落ちた恐怖が棘を持った言葉になった。
「時間が足りない怖さも、手が届かない悔しさも……!」
過去の記憶が濁流みたいに押し寄せる。彼に命の区切りがあることをはじめて知った周回。彼を助ける道があるんだと思いきや、幸せになったところまで見届けた次の周回では、ソフィアの目は別の人に向いていて。でも、知ったからにはなんとかできないかって試したこともある。でも、無理だった。
「っ……両方は救えないんだって、ずっと諦めてきた!でもっ……今度は助けられるかもしれないんです! 私がちゃんとやりさえすれば……っ」
「“ちゃんと”は、壊れることじゃないよ。アンジェリクさん」
今度は落ち着いた声が言う。いつもの優しい声。耳には届いたのに、私は止まれなかった。
「——私の体の限界は、私が決めます」
刃のような言葉だった。言ってからハッとする。冷えた指先の真下、床のチョークに霜が立っている。彼は眉をひそめない。それがなおさら痛い。
魔石を握りしめ、礼拝堂を——逃げるみたいに——出た。
✳︎
外は吐く息が白い。指先に残るのはチョークの粉と、丸すぎる石の角のない手触り。
寮への道は知っているはずなのに長い。足音を数える。四十、五十。折り返すたび、崖下の冷気が胸の奥を撫でる。
言われた言葉が頭の中で回る。
飲石は外法。やれるからやる、はやめるべき。その通りだと思う——でも、衝動は理屈の外にいた。
ベンチが目に入る。座り、膝の上で手を重ねる。目を閉じると、今年の断片が静かに並んだ。
春。孤児院の手伝いのあと、ソフィアの目が変わった。悩み始めた目。あとでリックが少しだけ話してくれた。「あいつ、ただの寂しがりだな。考えすぎるのが難」——口は呆れでも、目の奥は優しかった。彼があの子に何か言ったなら、大丈夫だと思えた。
夏。妖精市と合宿。彼女は願わなかった。願いに頼るより、見極めようとしていた。土と水の濃い場所で、落ちかけた子を上へ引いた。一人ではなく、全員を信じ、正しく頼った。配り方が少し上手になった。
秋。輪の中にいるのが自然になった。期末は皆と協働。先輩たちにも——ハーレムの一人ではなく、人として向き合おうとしていた。ランタンの夜、火から守った子どもたちに笑いかけていたのを見た。
確信した。
(ソフィアは、変わった)
そして冬。彼女のほうから私を訪ねてきた。恋じゃなくても、フィン先輩を助けたいと。
胸が熱くなった。応えたい、と。
彼が助かるためには、ふたりの仲が最大限深まっていないといけないのは、眼鏡で見てわかっていた。
だからハーレムを邪魔すると決めたとき、見送る覚悟もしていた。
(でも、踏み出してみれば、今の私とソフィアなら、やれる内容だった。何かに縛られていたのは彼女だけじゃない。“世界は現実”と説きながら、“シナリオが許さない”と思い込んでいたのは私の怠慢)
だからといって、いま自分を削ったって、埋め合わせにはならないのに。
(……はじめて、強く言われたな)
はぁ、とため息みたいな息を吐く。
庭師さんの「だめだ」。叱責ではない、正確な“やめろ”。心配してくれたのに、ぶつけてしまった。
降る雪は同じでも、体の中に火を起こせば雪は積もらない。——私の中はもう足りている。そう言ってくれていた。それを信じる。ポケットの小袋を握りしめる。
(明日、きちんと謝ろう)
立ち上がる。足音を数え直す。四歩目で肩の力が落ちる。裏庭のグラスハウスを過ぎるころ、寮の灯りがひとつ、ふたつと見え始めた。
✳︎
翌朝。霜の白が校庭の端に残る。温室脇のベンチ。外套姿の庭師さんは、いつもの革手袋のまま座っていた。
私はケープの前を握りしめたまま近づく。私の影に、ふっと顔を上げた庭師さんをまっすぐに見る。
「……昨日は、ごめんなさい。冷静じゃなかったです」
言えた。喉の刺が少し抜ける。寮の食堂で買った蜂蜜パンを出す。紙袋越しに甘い匂い。
「半分こ、しませんか」
彼は一瞬だけ目を細め、懐から小瓶と錫の杯を二つ。
「じゃあ、これも。葡萄ジュース。朝の分」
顔を見合わせて、同時に笑う。パンはきれいに半分。ジュースは等分。甘さが喉をやさしくなぞる。
飲み終えて、ポケットから昨夜の魔石を取り出す。両手で包むように差し出した。
「飲石鍛錬は、今後、禁止します」
庭師さんは受け取り、掌で軽く転がす。
「うん。そんなのしなくても君は大丈夫だ。——必要になっても、まず相談して」
「はい。もう、しません」
今度は、ポケットの小袋を胸の前へ。メリッサの香りが静かに広がる。
「それから……今度からはこれを“怖い時”にも使います。お守り」
「うん。君の助けになりますように」
「ありがとうございます——行ってきます」
「いってらっしゃい——頑張って」
シンプルな“頑張って”。けれど背中へ落ちたその声は、応援というよりも、ただ信じていると言ってくれているみたいで。そっと笑う。
指の中で、小袋があたたかい。今夜はこれを持って、礼拝堂へ行く。
次回【聖夜本番】




