2-12.サーチェスと月夜の鍛錬 〜アンside〜
点呼が終わり、テントの中が静まったあと。
私はそっと幕を押し上げた。湿った夜気に、焚き火の残り香。夏でも、山の夜は割と涼しい。一度だけ振り向き、ソフィアたちの毛布が深い呼吸に合わせて上下に膨らんだり凹んだりするのを見てから、静かに外に出た。
(……眠れない)
——昼の話だ。あの行軍中の霧の中、過去にはソフィアが足を滑らせた子を庇って落ち、そのままサーチェスが追って、二人とも戻れなかったことがあった。それから私は、彼も死なせないようにするため地形の陰で苦心した。
(まあ、今回も一応、昨日までに滑り落ちた先で見通しが利くよう、木の抜けを作って均しておいたんだけどね。庭師さんに教わった“風が通る”やり方)
——でも今年は、昼間、誰もいなくならなかった。
草の道を少し歩く。少しだけ胸の空気を入れ替える。ただそれだけのつもりだった。
そこに、風を切る乾いた音がひとつ、規則正しく耳に届いた。
(……打ってる音?)
視線を向けて、ようやく気づく。林の外れの小広場。
この月、この時間——過去の周回でソフィアがサーチェスに出会った場所だ。それを、さらにその後方で覗き見ていた古い記憶が遅れて蘇った。
広場の中央に、月を背にした背筋。
踏み込み、捻り、残心。無駄がない、見せるためじゃなく、ただ研ぐための反復。
その手が一瞬止まる。雲が月を隠したのと同じ瞬間、視線がこちらへ向いた。
——気づかれた。
(仕方ない)
瞳をほんの少し丸くしたサーチェスに、私は小さく会釈だけして、近づきすぎない距離に立った。
「マークス、こんな時間に何を」
聞かれて、肩をすくめる。
「ちょっと散歩を」
「……そうか」
サーチェスが低い声で答えた。そして続ける。
「だが、夜は冷える。その……湯上がりなら、長くは外にいるな」
語尾がほんの僅かに揺れた忠告で、私は自分の髪先に水滴が残っているのに気がついた。
(あー……。乾かしそこねてたのね)
きゅっと、髪先を絞るみたいに手で握ってから、軽く弾く。
サーチェスの目がほんの少し泳いでから小さく咳払いし、何事もなかった顔に戻った。
私は心の中だけで苦笑い。口では「大丈夫。すぐ戻る」と言い、手を一振りして見せた。
「そうか」
サーチェスは手袋の縁を直し、構えへ戻りかけて——そこで、もう一度、私の方へ半歩だけ視線を寄越す。
「……昼は、よく働いたな、みんな」
「! ……そうね」
私は頷く。
「特に、霧の時ね。ありがとう。隊で立て直したおかげで、誰も遭難したり死なずに済んだ」
そう言うと、彼の肩がわずかに落ちる。
「俺じゃない。そんな大袈裟に言うほどのことじゃ」
「大袈裟だといま思えるのが、あなたの選択のおかげよ。ソフィアたちも最前で頑張ったのは勿論だけど、あなただって、あそこで強引に降りたりしてたらまた違う結果になったかもしれない」
彼の眉間の強張りがほどけた。
月が雲間から戻る。彼の手の刃の背が白く反射する。
「……なら、やった甲斐はあったな」
口調に、ほんの少しだけ笑みが混ざった。
「だが」
と彼が一言付け加える。
「春前に見回り表について君に意見をもらっただろう。隊で動く、ってやつだ。あれが効いたと思う」
からかいじゃなく、認める重みだった。
「そう。よかった。それが今回、みんなの助けになったのなら嬉しい。」
私は会釈で受け取った。
「——じゃあ、戻るわね」
「ああ、俺も」
短い宣言。サーチェスが刀を握り直して、持ち上げる。鍛錬再開の合図だ。
けれど、私が踵を返しかけたとき、背に、低く短い呼びかけがあった。
「……アン」
ハッと一瞬だけ足が止まる。振り向く前に、同じ高さの声が続いた。
「風邪ひくな」
返事を選ぶ余裕は与えられなかった。鍛錬の音がもう一度、規則的に戻る。
彼がどんな顔をしているのかはわからない。
私はそのまま歩き出した。否定も肯定も置かれないまま、夜気だけが頬をかすめる。
テントに戻る。毛布は相変わらず規則的な息に合わせて上下に動いていた。
私は自分の場所に横になる。メリッサの小袋を指で開き、香りを一呼吸だけ吸って目を閉じた。
次回【帰り道の余韻】




