2-10.霧の行軍
午後は宿泊場への移動だった。
雲の機嫌が急に悪くなった。風向きがひとつ変わっただけなのに、尾根へ上がる頃には霧が降りた。
白が、右も左も等しくなる。
「道、見失ったかもしれません!」
前方の声で列が止まり、後ろが詰まった。
(ここだ。)
私は胸が冷えるのを感じながらロープを握り直した。手首のブレスレットが小さく当たる。
サーチェスは怒鳴らなかった。列の真ん中くらい、全員に届くところで声をかける。
「全員、一旦止まれ。前後の間隔を保ったまま、ロープは離すな」
安定した声で続ける。
「山の霧の中では声が散る。合図はロープで。一回引いたら進め。二回=止まれ、三回=戻れ。いけるか」
はい!と答えたみんなの揃った声は、確かに、山に沿って霧の中に吸い込まれるみたいに散った。
「三歩進んだら一呼吸しろ。列が詰まる」
後方のアレスが受けて、歩くテンポを決める。
「手が滑るなら手ぬぐいを巻け」
と、実用的アドバイスまで一緒に。
先頭からロープがツンと一度引かれた。張りが腕に伝わって、私も一度、ロープを引く。
合図は順にうしろへ流れて、列が少しだけ進む。
「右が冷たい——沢筋のようだね。左を拾おう」
私のすぐ後ろ、ブルーノが“地形の癖”を言語化すると、アレスが短く復唱した。
「左に寄れ」
しばらく行くと狭い道に出た。横は崖になっている。
足元はぬかるんでいた。地面の縁はわずかに見える。霧の粒が重く、掌が湿気で滑りがちになる。
私はアレスの言ったとおりに、タオルをバックパックのポケットから後ろ手で出してぎゅっとロープに巻いて握った。
少しマシになった。慎重に足を進める。
(起きるとしたらここだ——)
わかってた。
——けれど。
ふっと滞っていた霧の中に吹いた風が鼻先をかすめたその時。
不意に、左足の下が、ばき、と音を鳴らした。土の芯が割れた。
(え——)と思うより前に足場が抜け落ちる。
がくん、と体が滑りかけたのを気合いで踏ん張った。その目の前で、私のすぐ前の子の身体が白の縁へ消えかける。
ロープがぐい、と前に一気に引かれ、腕に焼けるような痛み——
(やばい!)
反射で、私は前の背中へ手を伸ばしかけ——止まる。(だめ、足場が狭い、掴めば二人とも崩れる)ロープ、合図。
「二回!」
私は強く引く。後ろのブルーノも咄嗟に腰を落とし、前に引きずられずに済む。サーチェスが駆け込み、斜面にぶらさがった子の服の背中をぐっと掴んで、重さが少しマシになる。
「しゃがめ、保持!」
アレスが声を張り上げる。全員の膝が一斉に地へ落ちる気配。後ろから支えるように引かれ、ロープの重みが、私の重心を戻す。
ただ、掴んだロープが私の足元の岩角で、じりりと嫌な音をたてていた。
「岩角で擦れてる——保護が要る」
近くで、ブルーノの低い一言。
「っ……服、当てる!」
私は外套を脱ごうとして——ロープを離せない。唇を噛んだその時、ブルーノのさらに後ろから声が飛んだ。
「ソフィア、これ!」
アンだ。大判のタオル。ぶん、と振って寄越されたそれを、私はすぐ足元の岩角に巻きつけて角当てにした。ロープの擦れの音が少し和らぐ。でも、まだ不安だ。
「支点を増やさないと。——アン!」
「予備線ある」
アンが細帯と補助ロープを前に回す。サーチェスが前へ、体を支点に崖の外に姿勢を落とす。
「胸で輪を作る。脇下から通せ——そう」
輪を通し終えたところで、ローゼリアが声を置く。
「息を合わせましょう、吸って……吐いて。今のまま」
「引き上げる合図は俺が送る」
アレスが静かに告げ、列の呼吸がそろう。
「締める——いけるか」
サーチェスが落ちかけている子に静かに確認。
「……いけます!」
「よし」
サーチェスが顎を引き、ロープが一度だけ鳴る。全員が体勢を保つ。
息を合わせる。
「一!」身体で後ろへ倒れ込むように引く。結びが噛む。
「二!」 半身が縁を越える。
「三!」 膝が尾根に乗る。
サーチェスが肩で引き上げ、全員でずる、と迎え入れた。
「はぁ……っ」
白の中で、荒い息だけがそろう。指先が遅れて痺れた。
「指、感覚は? めまいは?」サシャの声に、引き上げられた子が「大丈夫」と頷く。
「よく持った」サーチェスが短く言い、タオルを私に渡す。泥に濡れて少し重たい。一瞬だけ息を吐くために胸に抱きしめた。
「間隔、元の通りに行こう。呼吸は戻せ」
列が、みんなの深いため息と共に整い、戻る。
サーチェスはそのまま落ちかけた子の横について歩いた。
やがて霧の白が薄れて、尾根の背が見えだした。
拍手はなかった。
でも、みんなで越えたという手触りが、指についた麻の痕みたいにまだじんじんと残っていた。
次回【ちゃんと、見ていた】




