2-06.フェイ・マーケット 〜アンside〜
三度の鐘の音を、私は路地で聞いた。
市の端。人混みより、店の奥の作業音のほうがよく聞こえる場所を、歩いていた。
妖精の気配は——在る。姿は見えない。けれど灯の縁がときどき舞うみたいに、現実の方程式から少しだけこぼれる。
私は“囁き屋”を最初から避けていた。言葉の輪郭を撫で替える店——悪気はなくても、ああいうのは、あとで跳ね返ることがある。
桜色の髪が店の前に見えたときは足が出かけた。けれど、彼女自身が札を返したのを見て、行かなかった。
菓子の店、香草の店……横目に通り過ぎ、隣の店の魔石の並びで非常用をいくつか買う。
天然の魔石なんて、買えるのは高校の三年間でこの市くらいだ。
(もうほとんど必要はないんだけどね)
それでも揃えようとしてしまう癖が抜けない。
買った袋を腕で抱きしめ、唇を結んだ。
その時だった。
“——アン——”
「え?」
背中で名前を呼ばれた気がして振り向く。
けれど、そこに知った顔はなかった。代わりに、小さな金の光が視界の端で粉を落として瞬き、広い通りの向こう側へと飛んでいく。
それを無意識に目で追って——一歩、足が止まった。
(どうして)
通りの向こう。まっすぐな背で屋台を見るサーチェスが立っている。
——いや、いただけならまだよかった。
向こうは、こちらには気づいていなかったから。
ただ、人の波がほんの一瞬だけ滞り、ざわめきが、急に息をひそめるみたいに低くなって——
——気づいた時には、彼までの道が、きれいに空いていた。
(……誘導?)
ひくりと喉が鳴る。まさか、と自分に言い聞かせながら、袋を音を立てないように持ち直す。
(気づかれないように——)
そっと靴の向きを変えると、ちょうど横から、かすかなすすり泣きがした。見ると、鼻をこすった頬に涙、片方の靴紐がほどけたままの小さな子供。
「っ——大丈夫?」
駆け寄って少し話すと「おねえちゃん」とぐすぐす手を握られた。どうやら迷子らしい。
サーチェスが動いていないのを目の端で確かめてから、子供を連れて反対側へ。
一度だけ振り返ると、金色の光が、空中で「あれ?」と言いたげに左右へ揺れ……ほどなくフッと消えるのを見た。
✳︎
——子供は、願い札の木の前あたりまで行ったとき、血相を変えて駆け寄ってきた孤児院のシスターへ無事に帰せた。
「ありがとうございます」「よかったです」そんなやりとりをして別れたあと、ふと木を見上げると、もうたくさんの願いが飾られている。
見た感じ、葉より札のほうが多い。
(重たそう)
そう思って、小さく笑う。それから、少し考えて、私も一枚、脇の屋台から札を取った。
これだけあれば紛れる気がして、いつもは胸の中にだけ置いている言葉を静かに紙へ落とす。
——どうか、ソフィアが無事でいられますように。
けれど、それを書き上げた瞬間、それまでと逆向きの風がひと息、札を撫でた。
「あっ」
煽られて手から飛び出す札。
「しまっ……」
地面を転がっていく札を急いで拾いに行き——摘み上げたところで、違和感に気づいた。
(あ、れ)
一拍。目で追ったはずの行が、途中で途切れている。
(白い)
紙の上に書いたはずの“ソフィア”の名前が、なかった。
紙が濡れたわけでもない、文字が滲んだのでもない——なのに、それだけが、きれいに消えている。
まるで、見えない力が、静かに線を引いたみたいに。
……遅れて、ドクン、と目の奥が強く脈打つ。
(——消され……た?)
慌てて紙を裏返す。ない。
ぞわり、と足裏に絡みつく泥の感触が蘇る。視界が白く、狭くなる……。
その端に——橙色の毛先がふわりと揺れた。
「困ってる顔」
「! 庭師さん」
横に、深緑のエプロン。庭師さんが立って覗き込むように、私の手元の札へ視線を落としていた。
市での買い物帰りなのか、植物の鉢を片腕に抱えていた庭師さんは、何も言わずに、もう片方の空いた手を伸ばす。
「っ……」
「大丈夫」
そう言って、一瞬、肩をすくませかけた私の手元の紙面を、革手袋を嵌めたままの親指で一度だけ撫でた。
紙の葉脈が光を拾い、消えた文字の跡がうっすら……戻った。
「あ——」
(ある)
魔法じゃない。ただの圧で浮いた跡は、またすぐ白へ溶けた。
けれど、ほっと息が抜けた。
(消えてない)
それで充分だった。真っ白になった、けれど圧だけは残る札を裏返して、一瞬迷ってから木に結んだ。
(完全に落ち着いたわけじゃないけれど……落ちすぎずに済んだ)
「……ありがとうございます」
「ううん、これくらいはね」
短く言って、「それより」とエプロンのポケットから小さな包みを出した。
口を開け、そっと差し出される。ふっとした香りが喉の奥をひらいた。
さっき見た露店の——
「メリッサですか」
「うん。あげる。不安や緊張で深呼吸が足りない時に嗅ぐといい。『落ち着く』——そう思える何かを持ってるのが大事」
「なるほどです」
両手で受け取ると、彼の目がやわらかく綻ぶ。
直後、私ではなく札の列を眺め、ほんの微かな“警戒”を滲ませた。
「——帰り道、風が変わる。君は風下を避けるといい」
「従います」
「従うかどうかは君が決めること。……でも、すすめておくよ」
その言い方がおかしくて、ほっとする。息だけで笑った。
「庭師さんは、ここでも“庭師さん”なんですね」
「仕事柄、風の癖は、ついね。——じゃあ、気をつけて」
それだけ言って、彼は群衆に紛れた。歩幅はゆっくり、気配は薄い。
人の背の間に、深緑と橙がほどけていく。
緑や青、金銀の灯が一斉に揺れ、風が市を撫でた。妖精たちの姿は見えない。けれど、見えないものでも確かなものは在る。
たとえば、何度繰り返しても胸の奥で消えない、“守る”という決めごとも。
私は、風下を避けて歩き出した。




