3-25.舞踏会前の誘い
教室の扉が開いた瞬間、甘い香りがふわりと流れこんできた。
朝のざわめきの中、最初にそれに気づいたのは、窓際の席でノートを開いていた同級生。
「わ……」
続いて、何人もの視線が一斉に入口へ向く。
そこには、見事としか言いようのない花束があった。
いや、花束というより、もはや小さな庭だ。濃い紅、陽に灼けたような橙、金を含んだ白。見慣れない大輪の花が幾重にも重なり、その中心で銀の細い飾り紐がゆるく揺れている。抱えている使用人の姿が、半分ほど隠れてしまうくらいの大きさだった。
「ソフィア・テレーゼ様へ」
「……また?」
思わず漏れたソフィアの声は、かろうじて小さかった。
私は、読んでいた本を閉じ、ため息をついて花の向こうを見た。
使用人は慣れた手つきで花を教卓脇に置き、一通の手紙を添えると、深く礼をして去っていく。
残されたのは香りと、周囲のざわめきだけだった。
「すごい……」
「今日のはまた一段と……」
「熱砂の国って、あの?」
ひそひそ声が教室のあちこちでする。
ソフィアは困ったように笑って、けれど手紙にはすぐ触れなかった。机の上に置いた指先を、コンコンと打つ。
「……嬉しい悲鳴、とは違う顔ね」
小さく言うと、ソフィアは同じく小さく返した。
「ええ、シンプルに普通の悲鳴もの」
「断りにくいものね」
「相手が相手だし、周りの目もあるし……」
花の甘い香りに紛れて、ため息が一つ落ちた。
これで終わればまだよかった。
手紙。花。贈り物。廊下での待ち伏せめいた挨拶。
熱砂の国の王子は、あまりにもあっけらかんとしていた。押しつけがましいのに、本人には押しつけている自覚がまるでない。悪気がない分、余計に扱いづらい。
対策はしてきた。動線も、同席も、受け取り窓口も。けれど、そういう網を笑うみたいに抜けてくる相手は、いる時はいるものだ。
そしてその日の放課後。
やっぱりと言うべきかなんなのか、その人は、廊下の角を曲がったところで待っていた。
夕方の陽が高窓から斜めに差し込み、磨かれた床に淡い金の帯を落としている。その真ん中に立つ姿は、嫌になるほど目立っていた。
陽に灼けた褐色の肌。白に近い銀髪。砂金を思わせる金の装飾を軽やかに揺らしながら、彼は人好きのする笑顔で手を上げた。
「ソフィア嬢」
その瞬間、周囲の生徒たちの空気が変わる。
まただ、という顔。面白がる顔。息を潜める顔。
ソフィアは足を止め、私はその半歩横に並んだ。
「朝の花は気に入ってもらえたかな?」
「……ありがとうございました。とても立派でした」
「立派、だけ?」
冗談めかして肩をすくめるまではまだよかった。
「もうすぐ秋の舞踏会だろう。ぜひ君を誘いたいと思ってね。いや、それだけじゃない」
彼は一歩近づいた。
「君のような人は、学園の中だけに置いておくには惜しい。どうだい、卒業後は私の国へ来ないか。花に囲まれた宮殿も、砂漠の夜も、きっと君に似合う」
そこでさすがに口を挟んだ。
「……お言葉ですが」
やんわりと、声を落とす。
「彼女はまだ学園の生徒です。そのようなお話は、少し気が早いかと」
王子の視線が、初めて私へ向いた。
金の目が細まり、値踏みするようにこちらを見たあと、ふっと笑う。
「なるほど。君もいい目をしているね」
嫌な予感がした。
「ソフィア嬢と一緒に来るのを許可しよう。姫となる者の侍女になれば、君にも良い出会いがあるはずだ」
「は?」
内心だけで返したつもりだった。
そのまま相手の指先が、さらりと私の髪の先に触れた。
軽い。けれど、それより。
(なにこの展開……知らない)
(というより失礼じゃない?)
いら、とするより早く、隣でソフィアが息を呑んだ気配がした。
しまった、と思った時にはもう遅い。ソフィアの顔ははっきり怒っていて、その唇が開きかける。
(ちょ、っと、揉めるのはまずい……っ)
慌てて腕を伸ばしかけた、その瞬間だった。
「殿下」
低い声が割って入った。
次の瞬間、肩が後ろから軽く引かれる。思わず半歩ぶん下がり、その前へ大きな背中が立った。
サーチェスだった。
庇うように、自然に間へ入っていた。後ろ手に私たちをかばう形で、視線だけをまっすぐ王子へ向けていた。
「アンとソフィアは、大事な同級生で仲間です」
珍しく、声が少し強い気がした。
「失礼な言い方は慎んでいただきたい」
廊下の空気が、一瞬だけ止まる。
サーチェスはさらに続けた。
「学園内での交流自体は自由です。ですが、ここは誰の立場も学園の規律の中にあります。どうか節度を」
やわらかくはない。けれど、刃立てるような物言いでもなかった。
王子はきょとんとした。
そして本当に数拍遅れてから、はっとしたように笑う。
「……そうだね! 失礼した!」
あっけらかんとしている。そこだけ見れば、ただ素直な人にすら見えた。
「すまない。配慮が足りなかったよ。ではまた舞踏会で!」
「時間があれば、です!」
ソフィアがほとんど反射で返した。最後のほうは「お誘いはいりません」と続きそうな勢いだったが、そこはなんとか飲み込んだらしい。
王子は機嫌を損ねた様子もなく、軽く手を振って去っていった。
残ったのは、なんとも言えない沈黙だった。
サーチェスがすぐに一歩引き、私の肩から手を離して短く言った。
「……すまない」
さっきまでの強さが、影を潜めていた。少し気まずそうに目線を外しながら言う。
「考えるより先に動いていた。……あの方の、君への言い方がどうしても不快で」
私も気まずい。けれど、助かったのも本当だ……廊下の床の端へ、視線を落とした。
「……ううん、助かった。ありがとう」
少しの沈黙のあと、サーチェスが静かに言った。
「……俺は、君はあんなことを言われていい人じゃないと思う」
ぴく、と、うっかり肩が揺れる。
横でソフィアが、ものすごく気まずそうな顔になっていた。片手で口元を押さえ、視界からそろそろと横歩きで外れていく。
廊下の掲示板には、秋の舞踏会の案内がもう出ている。金の縁取りをされた紙が、夕方の光を受けてかすかに光っていた。
「……舞踏会、もうすぐだったな」
サーチェスが、掲示を見ながら言う。さっき王子も言っていたそれ。
「そこまで行事委の仕事の範囲だったか」
「ええ、そう。どんどん準備を進めなきゃで……」
世間話。答えると、サーチェスは掲示から目を離し、まっすぐこちらを見た。
さっきまでとは違う、妙に真面目な目だった。
「……当日、時間をくれないか」
「なに?」
「一曲だけでいい」
言い淀まずに続けた。
「踊れなくてもいい。輪の外でも。君がそこにいると思えるだけで、落ち着く」
胸の奥が、少しだけ跳ねた。
言い方はいつも通りだ。飾りも洒落もない。ただ真っ直ぐで、そのぶん、逃げ場がない。
「……考えておく」
「それで十分だ」
すると、ちょうどその時、廊下の端で一年生が壁飾りを落とした。乾いた音を立てて転がったそれを、サーチェスは一歩寄って拾い上げ、驚いた顔の一年生へそっと手渡す。
それから短く会釈して、またこちらへ戻ることもなく、そのまま静かに離れていった。
(そういう人——私だけに、じゃない。みんなに平等に、正しい)
(だからさっきのだって深い意味は——)
そこまで思いかけてから、
(……って)
小さく首を振った。
(そんなわけない、わよね)
二年前、中庭で「嫌だなぁ」と呟いた自分の声が、ふいによみがえる。
あの頃のように、考えないでいた時期は、たしかにあった。
でも
──ちゃんと返さなくちゃ。
窓の外で、灯りが一つ、また一つと灯り始める。
横で、ようやくソフィアが壁からじりじり戻ってくる。その様子には、少しだけ吹き出しそうになった。
夜はもう、すぐそこまで来ていた。
次回【舞踏会の告白】




