3-12.殿下の来訪と避雷板と庭師
寮の鏡の前。メリッサの小袋に細い紐を通し、結び目を二重にして首にさげると、柑橘と土の匂いが胸に優しく入る。
肋の下を「ここ」と軽く叩いてから、息を吸って、吐いた。
「よし」
扉を開けて、部屋を出た。
雨季明けの雲はまだ低い。
門の鐘が鳴り、実行委と生徒会の会議室に、黒い外套の列が音もなく入ってくる。王宮魔導士局の面々——その中央に、最小限の護衛を連れた王太子エルヴィス。
いつも通り、余裕を感じさせる柔らかい笑顔で口を開いた。
「急に来てすまない。——書面より、現場で合わせたくてね」
「いえ、お忙しいのに、ありがとうございます」
私は会釈して、用意していた資料を差し出した。
「まず共有を」
私は紙を三枚並べた。
「原則は二点。“個人を過度に目立たせない”/“成果は組織名義へ分配”。いま考えているのは、一つの講堂内での各国の魔道具や研究の展示です。演目は公平に。代表枠は委員会名義で出し、個人名は控えめに。——ただ、先日、単独演舞を望む声が大きくなったのも事実ですから、全体への繋ぎとして短尺の“ソロパート”は作ります。でも、演出としては“群”で見せたい」
横でソフィアが表情を引き締めて小さく頷く。
「妥当だね」
エルヴィス殿下はそう言って、資料の端を指先で軽く押さえた。
「“個人の華”は使う。でも“個人の物語”にはしない——そういうことだろう?」
「はい」
「なら、こちらも合わせやすい。王宮側で補助線を一本足すよ」
「補助線?」
「“称賛の分配”だ」
彼は少しだけ笑う。
「中の設計が正しくても、どうしても外は“目立った誰か一人”を褒めたがるからね。だから王宮の広報で、“学園と委員会の設計力”を前に出す文言を入れる。個人評ではなく、仕組みと連携を語る形にね。……それでよければ」
私は瞬きして返した。
「それは……助かります」
「ならよかった」
殿下は柔らかく頷く。
「表に出る言葉は、案外、空気を決めるから」
「はい。ありがとうございます」
その後は、王宮魔導士の面々と当日の安全管理や導線の細部について確認しあってから、会議はいったん区切りとなった。
殿下と魔導士たちは校内を一巡し、雨季明けで緩みやすい結界の継ぎ目の現地視察と簡易の補修作業へ。
要所を確認し終えると、殿下は次の公務のため足を止めた。
「次は開催日かな。楽しみにしてる」
「今度は、事前に甘い差し入れ用意しときます」
ソフィアが冗談まじりに言うと、殿下が目を細めた。
「それはぜひ頼みたい。やっぱり公務には甘いものがないといけないから」
ソフィアが吹き出し、後ろでブルーノも笑う。
それから、彼はいつもの爽やかな笑みを残したまま去っていった。
✳︎
解散後、ソフィアと並んで回廊を歩いていると、礼拝堂の近くで魔導士が図面を広げながら裏手へ歩いていくのが目に入った。
——あの場所。
つい、胸の奥が強張るのがわかる。
さっき会議で見せてもらった結界の継ぎ目でもない。
(なにか、あった? ……気になる)
ふたりで目を合わせ、踏み出した。
濡れた石の匂い。外壁沿いに回り込み、裏手へ——回りきる前に、ある人物を見つけて足が止まった。
膝をつき、指で崖肌の斜面をなぞる庭師さん。
足の近くには、銅の帯と杭、赤い札。何かの作業中みたいだ。
庭師さんが言う。
「崖筋は締めすぎないで——水の逃げ道は残したい」
「了解」魔導士が短い返事。
銅の帯が、外壁から地面へ降り、接地の杭がひと歩き分だけ下流へずれた。
私は声をかけようとして、半歩、躊躇いながら足を出しかけた——すると、足をつく前に、向こうが顔を上げてこちらに気づいた。
片手を上げて、私を止める。
「来なくていいよ、僕がいく」
あくまで自然な調子だった。
庭師さんはそう言って立ち上がると、サッと膝についた湿った土を払いつつ、私たちの側へまっすぐ出てきた。
土と草の匂いが香る。
(あ……)
近くまで来た庭師さんの体に隠れて、裏手の景色が見えなくなる。
そのまま礼拝堂の正面へ戻るように穏やかに誘導された。
「……何を話してたんです?」
歩きながら改めて尋ねた。
「避雷装置を置くんだって。地形の相談をね」
「……、……雷ですか」
口の中に、遠い鉄の味がよぎる。袋の香りを浅く吸って、視線を上げた。
「うん、このあたり、よく落ちるから。この前も大きかったろう? だから“落として逃がす”道を作る——大丈夫だよ」
大丈夫だよ、が優しくて、ほっと肩の力が落ちた。袋の温もりが胸でおとなしく揺れる。
庭師さんの視線が一瞬だけ私の喉元——小袋の結び目に落ち、すぐに戻った。
さらに、横でソフィアが小声で落とした。
「普通の庭師さんとして、か。妖精王様っぽく何か命じたのかと」
「あはは。それはみんなには内緒で頼むね」
庭師さんが笑い、私も笑う。
「殿下あたりはご存じかと思っていました」
「知らないだろうね。伝えてないから。……もう一人の君たちの先輩は、勘づいてるかもだけど」
「フィン先輩? ふふ、ありえる」
ちょうど隣で礼拝堂の外周を回っていた魔導士が図面に小印を一つ打ち、こちらに小さく会釈してから去っていった。
「うん。まあ、なんだ。つまり、僕が自分から正体を見せたのは、いまのところ君たちだけだよ。よろしくお願いします」
ぺこり。
「わ、わあ、はい! こちらこそ!?」
ソフィアがあわあわ。
私は笑って、袋の結び目をもう一度だけ確かめた。
「はい。よろしくお願いします」
雲が薄く裂け、影が伸びる。礼拝堂の前まで来たところで風が一度めぐり、夏へ向かう匂いが混じる。
背後の礼拝堂裏からは、まだ言葉にならない冷えがうっすら上がってくる。
それでも結び目は確かで、準備は静かに、確かに、前へ進んでいく。




