3-08.速い“補正の風”
昼の鐘がひと打ちし、風が抜けたそのすぐあと。
教室に戻る途中で、私たちは食堂前の掲示板前に僅かに人だかりを見た。
「なにこれ、面白そうじゃない?」
「私、書こうかなあ」
そんな声が聞こえる。内容はよくわからないけど賑やかだ。
首を傾げて近寄ると、紙が一枚、板にぴしりと貼られていた。内容を読む。
「え」
思わず声が出た。
そこには、朝にはなかった文面で、こうあった。
〈交流戦・開会式の代表演目に、候補名:ソフィア・テレーゼ/推薦内容:単独演舞を推薦します〉
元は空白だったと思われる、候補名と内容の欄に、名前と事柄だけが墨で一行。
署名欄の罫線はまっすぐ、等間隔。少し“整い過ぎ”にも見えたその紙面に、もういくつもの署名が並んでいる。
(目立たせないって、言ったばかりなのに)
——どうしてこういうことが起きるのか。目の奥がほんの少し眩む。
「私、出るなんて言ってないわ」
ソフィアが軽く困った顔をして、声を張る。
「だって」と言って、まるでそんなこと意に介さないとばかりの柔らかな断片が耳に返ってくる。
「一昨年の文化祭の展示、綺麗だったから」
「誓灯祭で子ども助けてたの、かっこよかったし」
「セレモニーで平等に見せるなら、全属性は最適解でしょ」
言葉は好意的。
いつのまにか廊下の列が膨らみ、話を聞き違えてきたのか、花や糖菓まで抱えた生徒まで集まりだす。
流れが速くなり、受け取りを求められたソフィアの肩が、その圧で傾いた。
(転ぶ。埋もれる——)
私が手を出そうとしたその時。
「気をつけろ」
低い声。アレスが半歩だけ前に入り、掌で人の流れを割った。
もう片方の手の甲がソフィアの肘の外をふっと制し、傾いた姿勢が立ち直る。胸元がソフィアの顔の位置に一瞬だけ重なり——すぐに離れた。
「……悪い。今は出す手だと」
ぼそりと言う。
「ううん、ありがとう」
ソフィアもそこで切る。ちゃんとあっさりしたもの——なのに、空気が揺れた。
「今、近かったよね」
「抱き寄せてた? いや、違う?」
「距離は戻してた」
薄く走る囁き。まるで出来過ぎみたいな流れに、ほんの少し胸がざわつく。
すると、また別の低い声。
「大丈夫か」
アレスの後ろからスッとサーチェスが出て、彼らの前に立つ。
「廊下、詰めすぎだ。全員、三歩下がって整列しなおせ」
落ち着いた、でもきっちり締め直す調子に、ぴしり、と廊下に詰まった人の列が揃い、整った。少しだけ空間に余裕が戻る。
そこへ
「なんだこの騒ぎは」
「先生」
通りかかったディーン先生が列の前に進み出てきて、掲示板に気づき、目を細めた。
「——代表の任命や推薦は、恒例だ。……が、今年はまだ誰にも出していない」
先生が軽く起こした風が端をめくり、剥がす。
「悪戯か?」
「わかりません。気づいたらこうなっていて」
言いかけると、列の端で、顔を赤くした子が小さく手を挙げた。
「すみません……その書式、私が貼りました。推薦文、字の大きさで毎回揉めるって聞いたから、例として“枠だけ先に”のつもりで。煽るつもりはなくて……ごめんなさい。でも、ソフィアさんの名前や、みんなの署名まで書かれちゃった理由は、わかりません」
「そ、それ、私です……!」
続けて、少し離れたところでも手が上がる。
「ソフィア先輩の名前、書いたのは私です。先輩が好きで……ソロが見たいなって。つい。署名も。そしたら、みんなが続いちゃって」
いくつか頷きが返る。
ソフィアとアレスとサーチェスが複雑そうな顔で目を見合わせ、先生が小さくため息をついた。
(つまり)
私は頭の中で整理した。
書面の“整い過ぎ”の理由は、誰かの悪意でも得体の知れない者の仕掛けでもない。ただの気配り。名前が入ったのは、“推したい”気持ちが勢いを持ってしまっただけ。
偶然の重なり。
ただ——
(タイミングが気持ち悪いだけ)
——外の風の音が少し大きくなり、窓を揺らした。
次第に列の膨らみが落ち着いて解けていくのを見ながら、半拍早い鼓動だけが、まだ喉の奥に残っていた。
次回【会議明け・ブルーノの夢の話と風の続き】




