3-05.春の嵐のあと・温室
温室はしっとり曇って、ガラス越しの朝がまだ柔らかい。
私は扉を閉め、深呼吸をひとつする。
草と土の匂いが胸を撫でていった。
そして、口を開く。
「……“あの日”、私を押さえていたの、あなたですか?」
背を向けていた庭師さんが、エプロンの紐を結びかけていた手を止める。
手袋はない。その手首にある薄い樹枝状の痕と、振り向いたとき見えたエプロンの端の焦げ跡に、私はそっと視線を向けた。
「その焦げ——そして、その痕。雷でできたものですよね」
短い沈黙。庭師さんがやわらかな微笑で誤魔化しかけて、観念したように息が落ちた。
「……君は勘がいい」
その一言で、胸の奥がきゅ、と詰まる。
「はい、僕です」
じわりと何かが目の端に滲んだ。
「ずっと、知ってたんですか」
「いや」
少し考えながら庭師さんが答える。
「最初はね、世界の綻びか妖精のいたずらに“僕が”捕まったのだと流していた。まさか“同じ子”の周回に、何度も巻き込まれていたとは思っていなかった」
「“同じ子”……私」
「うん。戻る季節やきっかけは違っても、君の匂いと足音だけは同じだと気づいてね。それから、気にかけるようになった」
「どうして言わなかったんですか」
「人の子の旅路は、人の子が決める。妖精王家の古い作法です。誰かに“解き方”を教えられると、君の心が君の順番で答えに届かなくなることがある。それに、君は自分で立てる子だと思った」
「……ずるい言い方」
「臆病な言い方、かな。……でも、昨日は線を越えた。君にあの雷は酷だ」
私は目を伏せ、唇の震えを飲み込んだ。
庭師さんがポケットから乾いたメリッサを取り出し、掌で揉んで香りを立たせて差し出す。
「……拾ってくれてたんですね」
「君のためのお守りだからね」
手に受け取り、深く呼吸する。メリッサの柑橘と土の匂い。鼓動がゆっくりになる。
「だめな時は、また呼んで」
「……ありがとうございます。あの時も、今も」
そう言ってから、少し躊躇いながら、庭師さんの腕の痕へ。
手を伸ばしかけ、触れない距離で止めた。
「痛かった、です?」
私が聞くと、小さく笑って首を横に振る。
「君に比べたらそれほどは」
「比べないで」
「じゃあ、君がここにいるから、もう大丈夫」
その言い方に、私はふっと笑う。力が抜けて、温室の硝子に春の光がひと筋走った。
*
温室を出ても小雨は続いていた。けれど風は落ち着き、胸の真ん中も昨日までより軽い。
寮の前で足を止める。
きょろきょろと左右に向く首に合わせて桜色の髪が揺れるのが見えた。
「アン!」
私を見とめて、ソフィアが駆け寄ってくる。髪と肩がしっとり濡れている。本人は水避けくらい使えるのに、たまに“魔法が使えること”を忘れるらしい。前世の癖だとか。
「大丈夫なの?」
問われて頷く。
「うん。……私、最初からひとりじゃなかったんだって」
言ってから、自分でも少し驚く。ずっと奥にあった硬さが、やっと解けたみたいで。
「はぁ? なに、どういう意味?」
「ん、ふふ、いいの。足元の泥が、すこし乾いたってだけ」
「? よくわかんないけど……歩きやすくなったのね?」
「ええ、そういうこと」
つま先で泥を確かめ、指で風を起こす。靴の縁がすっと乾く。
ついでにソフィアの肩と髪にも、ひと撫でほどの風。濡れ色がふわりと退いて、香りだけが残った。
ソフィアは髪先をつまんで、目だけで「助かった」を言う。
「ほんと、うまいわね、こういうの」
「場数だけは踏んでるから」
二人で並んで玄関へ向かう。扉の金具が昨日と同じ音を立てて——でも、昨日より、少しやわらかく響いた。
次回【雨だまりの会話】




