3-02.春の嵐
(やんでくれれば、と思っていたのに)
やっぱり凶兆なのかもしれない。
始業式から数日が過ぎても、春の雨はやまない。
やんでは降りを繰り返し、むしろ強まっていた。桜はとうに散り、地の花弁も流されてしまった。
「そろそろ青空が見たいなぁ」とサシャ。ローゼリアも「作物に影響がなければいいのですが」とぽつり。
私も同意見だった。
早く去ってほしい。このところ、空だけでなく、頭まで重くなってきた。
(それでなくとも憂鬱なのに)
放課後の廊下に漂う湿った匂いが、胸の奥に沈んでくる。
三年目。ついにこの年。——やっと来た、とも、また来た、とも思う。
なぜなら、今年は必ず“最後の夜”が来る。
最初の頃は常に緊張していた。ソフィアに運命を訴えたことも、教師に訴えたこともある。
でもちゃんと信じてはもらえなかった。
だからそのあとは諦めて、ひとりで色々と試した。でも、助かるのは常に“恋人”が間に合った周回だけ。だから終盤はずっと導線を開く側に徹してきた。
ただ今回は、ソフィアを助けに飛び込む“定番の騎士”はいない。
——私が策を見つけて、助けるしかない。
前までは上手くいかなかった。
でも今は、ソフィアも警戒してくれる。
それに、この二年間、過去のどれもと違う選択で進んできたけど、なんとかなっている。
(だから、きっと大丈夫)
——そう思いたいのに。
こういう時、いつもならグラスハウスか温室で、リックか庭師さんと他愛ない話をして、呼吸を落ち着けてきた。
ただ、今日はリックの配達の予定はない。通信室を使ってまで話すこともない。
だったら——温室。ついでに作業の手伝いでもさせてもらえれば、気も紛れる。
放課後、そう決めて歩き出した。
けれど、そこへ向かう途中の一階の渡り廊下で、ふと足が止まった。
雨が横から吹き込んでいた。
箱を抱えた下級生が前を見えているのか怪しいまま、向こうから歩いてくる。
(大丈夫かしら)
声をかけようかと思ったところで、その子が足を滑らせ、抱えていた箱から薄紅の紙が撒かれるように散った。
課外で孤児院の子供たちに持っていく花紙——頭ではわかった。
けれど、目の前で広がった赤が、私のいちばん奥の嫌な記憶と重なった。
濡れて張り付いた地面。
(あ。これ)
目の奥がぐらりと回る。紙の赤と“液体の赤”が混ざる。
(だめなやつ)
足の力が緩む。
倒れる、と思って瞼を閉じ、柱を探し当てて額を寄せた。
ポケットのメリッサを鼻先へ持ってきて、数をかぞえる。
雨音が耳の奥でこもる。
沈む感覚。
でも、香りが胸を満たすにつれて現実の線が戻ってくる。
瞼の裏の白が少し遠ざかって、ようやく息を吐けた。
「……大丈夫」
言葉と同時に視界が戻る。
瞬きして目を上げる。
崖の下も、銀のナイフも、泥に塗れた桜色も、赤い血も。いま足元にはない。
まだ、その時じゃない、と自分に言い聞かせる。
考える時間はある。過去、ひとりだったときのような失敗はもう——
足に力が戻るのを確かめ、一歩。
しゃがんで、紙を拾い集める。
ふやけて破れたものは袋へ、無事なものは風でひと撫でして束にして渡した。「ありがとうございます!」と彼女は笑い、箱を抱えて駆けていく。
「……どういたしまして」
背中に低く返してから、ふと足元にまだ紙くずがあるのに気づいた。学園の庭を汚すわけにはいかない。
水ごとふわりとまとめて掌に収め、氷へ換える。泥と紙が閉じ込められた氷は汚く見える。私の手も。
「っ……吐きそう」
声に出せば軽くなると思った——逆だった。手洗い場へ駆け込む。
何も出ない。息と唾液だけ。胸に何かがつっかえているみたいだった。
水を含んで吐き出す。
喉の違和感がわずかに落ちる。
洗面台の縁を握り、首を振る。
「これだから、この年、嫌いなのよ」
ポケットのハンカチに手を伸ばして転移石に触れた。温室に飛ぶべきか一瞬迷った。
——けど、いま使えばさすがに酔う。
空の拳を握って外へ。雨音がさっきより激しかった。草の匂いも濃い。
空が低く鳴り始めていた。
見上げると、胸の奥がまた込み上げた。
✳︎
空が低く唸る。深呼吸——のはずが、湿った空気が胸の奥で引っかかる。
回廊へ、できるだけ濡れない陰へ。
息が急く。
温室へ抜ける最短の回廊を選んだのに、視界の端に礼拝堂の尖塔が灰の中に浮かんだ。
それで、足が止まる。
(しまった)
私は、あれに弱い。特にこんな時は。
指先が冷え、喉がわずかに狭くなる。屋根のある通路なのに、風がねじ込み、頬に冷たい水。
土の上じゃないのに、靴底に泥がまとわりつくみたいに重い。
目を背けられない。
尖塔が灰の中に細く立つ。
空気がぴん、と張って、腕の産毛が立つ。
——白が走る。尖塔の縁だけが一瞬、瞬いた。
「いち——」
数えようとして言い切る前に、落ちる音。
腹に響いた。
屋根の板がびり、と鳴り、窓枠がかた、と震えた。
鼻に“鉄っぽい”匂い。喉がきゅっと固まる。
(今じゃない。吸って——吐いて——)
震える指がメリッサの小袋をつまみ、口元へ上げる。
息を作り直そうとした時。
二度目の白が光った。さっきより近い。ほぼ同時に音が刺さり、肩がびくりと跳ねた。
(しまっ……)
指がほどけて小袋が滑り落ち、石床にぺたりと貼りついた。濡れていく。香りが沈む。
視界が狭く遠のく。
(吸えない——)
膝が抜ける。床が迫る——その時。
「君、だめだ」
背から腕が回り、肋の下で止まった。土と革の匂い。落ちる体重をそのまま受けとめられる。
耳元で声がする。
「ここ。息」
返事はできない。喉が閉じている。肩で息をするのもぎこちない。
腕はそのまま、開いた手のひらが肋の下を軽くノックする。ここだよ、と合図を重ねる。
「ゆっくり開こう。そう」
頭はまだ霞む。
けれど、その声に合わせて胸が上がり、下りる。
雨音が半歩遠のく。遠くで、また雷。
指が勝手に彼の袖を掴む。痛いくらい。
けれど、恥ずかしいより先に、離れたくないが来る。
「大丈夫。ここにいる」
その一瞬、回された腕がすこし強くなった気がした。
土と青い草の匂い——雨の日のそれとは別。
でも、昔にも一度、嗅いだことがあるのを思い出す。
視界の縁がふっと暗くなる。
(——ごめんなさい……少しだけ、借ります)
そこで、落ちた。
本話で100話。
次回【夢の独白より】




