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一話 夜の雨と捨てメイド

「寒い……」


真夏だというのに、夜の雨は妙に冷たかった。大学院生の東雲しののめ れいは、傘をさしながら、自宅アパートへと続く裏通りを早足で歩いていた。今日は研究室のサーバーがダウンするという緊急事態に見舞われ、日付が変わる直前にようやく解放されたばかりだ。疲労と空腹で、怜の意識は半分夢の中だった。


その時、一瞬、視界の隅に()()が映った。


怜は足を止め、立ち並ぶ古びたゴミ集積所の陰を覗き込む。そこにいたのは、雨を吸って薄汚れた段ボール箱を背に、膝を抱える少女だった。


普通の浮浪者とは明らかに違う。その少女は、あまりにも場違いなものを身に纏っていたのだ。


クラシカルなメイド服。


深い紺色の生地は雨に濡れて張り付き、白いフリルやレースは泥で薄汚れていたが、その仕立ての完璧さは、一目で高級品だとわかる。まるで古いヨーロッパの映画から抜け出してきたかのような、現実離れした装いだ。


怜は警戒心を抱きながらも、この状況を無視できなかった。こんな夜更けに、ずぶ濡れのまま一人でいるのは、どう考えても危険だ。


「あの……大丈夫ですか?」


声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。


怜は息を呑んだ。


彼女の顔立ちは完璧に整っていた。濡れて張り付いた前髪の下には、吸い込まれそうなほど深いアメジスト色の瞳。その瞳は、怜をまっすぐに見つめ返し、感情の波を一切感じさせない。美しく、そして異様なほどに冷めていた。


「ええ、ご心配には及びません」


少女の声は、驚くほど冷静で、そして耳に心地よい響きを持っていた。立ち上がった彼女は、服の汚れとは裏腹に、背筋がピンと伸びている。


「その、こんなところで何をしているのですか?」

「何も、していません」

「家には帰らないのですか?」

「……私に帰る家などありません。捨てメイドですから」

「え? 捨てられたって……いや、それより、メイド?」


怜は混乱した。現代日本で、まるで中世の物語のような言葉が出てくることに、怜の理性が拒否反応を起こす。これは手の込んだドッキリか、あるいは何か社会的な問題を抱えた集団の儀式か?


「……メイドさん。お名前を聞いてもいいですか?」

「カエデ、と申します。以前のご主人様からは、そう呼ばれておりました」


カエデ、と名乗った少女は、そっと片手を胸に当てた。その仕草一つにも、訓練された優雅さが滲み出ている。


「カエデさん。冗談じゃないのは分かりますが、この雨の中、ここで一人でいるのは本当に危ない。風邪を引くだけじゃ済まないですよ」


怜は彼女の目の奥に、冷静な表情の下に隠された微かな恐怖を感じ取った。それは、助けを求めることさえ許されない、孤立した者の切実な感情だった。


「とりあえず、僕の家に来ませんか? アパートで狭いですが、温かいシャワーと着替え、それに毛布くらいは出せます」

「それは……ご迷惑以外の何ものでもないと存じますが」

「困った時はお互い様です」


怜は、研究室の同僚に徹夜作業を助けてもらったことを思い出し、軽く笑った。その笑顔が、カエデの警戒心をわずかに緩めたようだ。


「……承知いたしました。では、今宵一晩のお宿を、図々しくもお借りいたします」


カエデはそう言うと、深い雨の中、傘もささずに立っている怜の細い手首を、そっと掴んだ。その体は驚くほど冷たく、彼女がどれほど長い時間、この雨に打たれていたのかを物語っていた。


「僕は東雲 怜です。研究者見習いです」

「カエデ、と申します。……東雲様」

「東雲様、なんてかしこまらなくていいですよ。怜でいいです。じゃあ、カエデさん。行く当てがないなら、今日からあなたは『拾われメイド』です。とりあえず、僕が新しいご主人様……ってのは変か。新しい居候先ですね」


怜は軽く冗談めかして言ったが、カエデは立ち止まり、深く、完璧なお辞儀をした。


「承知いたしました。ご主人様」


その瞬間、怜は彼女が本当に"メイド"という役割に人生を捧げているのだと悟った。彼女にとって、それは職業であり、アイデンティティであり、生きる理由なのだと。


そして、自分の平穏な大学院生活が、不可逆的に変わる予感に、怜は身震いした。

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