プロローグ
この世界には、「ケーキ」と「フォーク」が存在する。
ケーキ──
それは、人間でありながら、人間以上の「香り」を持つ存在。
決して人工では作れない
濃厚で、ふわりと甘く
本能に訴えかけるような香気をまとう、選ばれし者。
けれどケーキは、自分がケーキであることに気づかない。
自らを「普通の人間」と信じたまま、日々を生きている。
それが一番の幸福であり、一番の無防備だった。
一方で、フォーク──
かつて、何らかの理由で「味覚」を失った人間たち。
人との関わりの中で、心の奥の何かが摩耗してしまった者たち。
だがある日、突然“香る”誰かに出会い
失われた味覚が目を覚ます。
それが、ケーキとの邂逅だった。
フォークにとって、ケーキは唯一無二の悦楽だ。
一口、いや、ひと舐めでもできたなら。
この喪失だらけの人生に、確かな“味”を取り戻せる。
──だが、当然ながら、ケーキは“食べ物”ではない。
それを理解していてもなお
自制心が壊れてしまうほどの甘美が、そこにはある。
誰にも言えない衝動
誰にも止められない欲望
ケーキとフォークの関係は、
しばしば“捕食”という悲劇を呼ぶ
* * *
朝のテレビから流れる、どこか遠い世界の話のようなニュース。
『……昨日午後8時ごろ、都内の繁華街で、20代の女性が男に襲われる事件が発生しました。女性は軽傷で命に別状はなく──』
ソファに座ってパンをかじっていた俺は、手を止めてテレビに目を向けた。
『犯人は取り押さえられましたが、容疑者は取り調べに対し、“どうしても我慢できなかった”と供述しており──』
「ケーキ……また襲われたんだ」
ぼそりとつぶやいたあと、テレビの画面から目をそらす。
「……怖いな、ほんと……俺には関係ないだろうけど……」
言いながら、自分の胸の奥で、何かがざわついた気がした。
だけど、それが何なのかは分からない。
分かる必要も、ないはずだった。
──そのときまでは。