01. コンテとトンボ鉛筆-04
そんなふうに考えていたその間にも、生徒たちが一人、また一人と教室に入り、自分の席につき始めていた。
ヘジュンは受験生でもなければ、準備生でもない中途半端な立場だったせいで、静物台の近くには席が取れなかった。
結局、静物台を囲む受験生たちの外側、隅っこの一角に席を見つけるしかなかった。
静物を描こうにも、まともに見えなかった。
空っぽの画板をイーゼルに立てかけたまま、ヘジュンはひとつため息をついた。
フィギュは生徒たちの出席を確認し、紙を取りに事務室へ向かった。
おしゃべりに花を咲かせる生徒たちの中に混ざることのできないヘジュンの姿が、彼の目に焼きついていた。
――アリアス。
彼女の姿が、ふとアリアス像と重なって見えた。
フィギュが席を外しているあいだ、ミエがコーヒーを一杯手にしてヘジュンに近づいてきた。
「お姉さん、コーヒーいかがですか?」
「え? ありがとう……ございます」
「も~、敬語はやめてくださいってば。先生が来る前に早く飲まなきゃダメですよ。絵を描いてる最中はコーヒーなんて飲めませんからね。それと、飲み終わった紙コップ、捨てないでくださいね?」
「えっ、なんで?」
「静物ですから!」
ミエはちゃっかりした表情でそう答えた。
静物? 静物画。そうだった。
「静物デッサンを試験科目にしてる学校ってあまり多くないから、うちの教室でも資材が少なかったんですよ。でも来年とか再来年から増えるらしくて、ちょっとずつ備品も増えてきたんです。
それまでは、生徒が食べ終わったお菓子の袋とか、ペットボトル、破れたビニール傘、紙コップはもちろんのこと……あそこにある廃タイヤはユン先生の車から外したものなんですよ。
タイヤってひとつは必要だけど、いざ買おうとすると高いんですって。でもちょうど先生の車のタイヤがパンクして、それをもらったって話です」
ミエはその後も、実にいろんな話を楽しそうに語ってくれた。
聞くに大半は、生徒たちの間で流れる噂話のような内容で、実用的な情報とは言いがたかったが、ヘジュンは丁寧に耳を傾けていた。
ヘジュンがコーヒーを飲み終えると、ミエはさっさと自分の席に戻っていった。
ちょうどそのタイミングで、フィギュが紙の束を抱えて戻ってきた。
彼は生徒たちに一人ずつ紙を配りながら、隅にサインを書き入れていった。出席の印だった。
最後に、ヘジュンにもケント紙を手渡しながらこう言った。
「君は、今日は静物描かなくていいよ」
「えっ? じゃあ、何を描くんですか?」
「手」
「手? 私の手を?」
「そう。しばらくは手をほぐすために、静物デッサンじゃなくてコンテでクロッキーだ」
「手をほぐす」とは具体的にどういう意味かはわからなかったが、ヘジュンは素直に言われた通りにすることにした。
他の生徒たちはすでに構図を決めて、フィギュに見てもらったり、相談を始めたりしていた。
中には、もう描き始めている生徒もいた。
木でできたリンゴ箱、干しタラ、ガラスのコップ、軍手などが見えた。
リンゴ箱の向こうにも何かが置いてあるようだったが、遮られていてよく見えなかった。
近くの生徒の絵を見ると、リンゴとスニーカーの片方がモチーフに含まれているようだった。
比較的近くにいた生徒の絵をちらりと見ると、リンゴ一つとスニーカー片方も描かれているようだった。
ヘジュンはそんな彼らの様子を眺めているうちに、そっと視線を落とした。
彼と目が合ってしまったからだ。
ほんの偶然目が合っただけなのに、驚いたウサギのように慌てた自分が恥ずかしかった。
早く絵を描き始めなければ。
絵を描いている間だけは、きっと他のことは考えずに済むはずだから。
彼女は俯いたまま自分の左手を見つめた。
もう何度も描いている手なのに、今日はまた新たな表情を見せていた。
『私の手って、こんなふうに見えるんだ……』
親指は妙に長く、尖っていた。
全体としては細長いシルエットに、小さな爪。
小さな爪はコンプレックスだったが、これほど細い指に大きな爪がついていたらきっと滑稽だったに違いない。
掌も指も細長く、全体としては縦に伸びた卵型の手だった。
特に親指が発達していて、それが際立って見えた。
それが面白くて、ヘジュンはなるべく綺麗に見えるように手の位置を整えて描き始めた。
2切りサイズのケント紙に左手を半分ほど描き終えた頃、フィギュが近づいてきた。
ヘジュンの背後に立ち、彼女が描く絵を無言でしばらく眺めていたが、不意にひとこと、ぽつりと言った。
「漫画でも描いてるのか? そんな手、あるか?」
ヘジュンの顔がぱっと赤くなった。
暇つぶしに漫画を描いていた癖がまだ残っていたのかもしれない。
だが、決して手を漫画っぽく描いたつもりはなかっただけに、悔しさがこみ上げてきた。
思わず、少しきつい口調になってしまった。
「ここにありますよ!」
そう言って、自分の左手を見せながら、絵の中の手と同じ角度にしてフィギュの目の前に差し出した。
「お? 本当だ。君、手がちょっと独特だな」
最初は「漫画みたい」と言っていたのに、今度は「特別な手だ」と言う。
ヘジュンの返事もややぶっきらぼうになった。
「何がですか?」
「ここ、この部分。普通の人はここまで発達してないんだ。外科医の手みたいだな。うちの兄貴の手に似てるよ」
「えっ? どこが……」
フィギュは笑いながら、自分の手とヘジュンの手を並べて画板の上に置いた。
確かに、ほんの少し違って見えた。
男の手、女の手という以前に、手そのものの形が違っていた。
「君、親指の関節も平均より長いし、基節骨もすごく長い。親指を人差し指側にくっつけてみて、こうやって。そう、それだ。普通はここの角度がそんなに目立たないんだよ」
いつの間にかフィギュは紙の上に、ヘジュンと自分の手を置いて、その輪郭をなぞっていた。
描き上がった輪郭を見ると、違いは一層はっきりしていた。
だが、それがどういう意味なのか、ヘジュンにはわからなかった。
目を丸くして、フィギュの横顔をじっと見つめた。
「綺麗というより……表情豊かな手だ。そして、線が、生きてる」
なぜか、彼は言葉を区切るようにそう言った。
そしてゆっくりと顔を回し、ヘジュンの瞳を覗き込んだ。
ヘジュンには、その細く二重の入ったフィギュの目がとても美しく見えた。
「君、二重じゃないんだな。僕、二重じゃない目が好きなんだ」
そう言い残すと、フィギュは急いでヘジュンの隣の席から立ち上がり、別の生徒のところへ行ってしまった。
ヘジュンは、彼が話している間、ほとんど何も返せなかった。
それは、彼が席を離れた後も同じだった。
彼は一体、どんな意味であんな言葉を残していったのだろうか……。