01. コンテとトンボ鉛筆-02
少しして、生徒たちが一人、また一人と戻ってきた。
ほとんどが高校三年生で、時折浪人生やベテラン受験生らしき姿も混ざっていた。
とはいえ皆石膏デッサンのほうへ向かってしまい、ヘジュンはぽつんと座っているしかなかった。
「すみません」
「え?」
「そこ、私の席なんですけど……」
顔を上げると、白桃のような頬をした女子生徒が、どこか申し訳なさそうな顔で話しかけてきた。
「ああ、そうだったのね。ごめんなさい。今日、初めて来たもので」
「大丈夫ですよ。それより、今年の受験なんですか?」
「ううん、来年なの」
「じゃあ……私よりお姉さんですよね。敬語はやめてください」
ヘジュンはどう返していいか分からず、ただ笑ってごまかした。
彼女はこれまで五歳の子ども相手にさえ、ため口を使ったことがない。
ため口を使うというのは、彼女にとってはかなり難しいことの一つで、結局、いつも敬語ともため口ともつかない中途半端な話し方になってしまうのだった。
「えっと、ユン先生のクラスですか?」
「うん、静物デッサンクラス。お姉さんもユン先生のクラスに入るんですね?」
「そ……う、ね」
「うちのユン先生、すっごくかわいいですよ。でも、評価になるとすっごく怖いです。男の子には棒みたいなもので叩いたりもしますからね。体は小さいけど、ものすごく力が強くて、先生よりずっと背が高くてがっしりした男子でも、二、三発食らうと立てなくなることもあるんです。頻繁に叩くわけじゃないですけど、当たったら終わりって感じ。まあ、手だけは絶対に叩きません。絵を描く手を怪我させちゃいけないから。その代わり、お尻とか太ももを狙うんですよ。そうすると、椅子にちゃんと座れなくなって、四、五時間ずっと中腰で描くことになるんです。ほんと、地獄ですよ」
桃色の頬をしたその女子生徒は、なかなかのおしゃべりな性格のようだった。
初対面の相手に聞かれてもいないことをペラペラ話すあたり、そうとしか思えない。
でも、不思議とその人懐っこさが嫌ではなかった。
ヘジュンは、あの穏やかな子牛のような目をしたフィギュが、大柄な男子生徒たちを叩いている姿がどうしても想像できなかった。
なんというか、小さな羊が巨大な雄牛たちの前で吠えているような……そんなイメージだった。
ひとりでそんなことを想像してクスッと笑っていると、背後からユン先生の声が聞こえてきた。
「そり、何をベラベラしゃべってるんだ?」
「そりって言わないでください!先生~っ、私の名前はソル・ミ・エ!いつまで『そり』って呼ぶんですか~」
「一度そりなら、永遠にそり!」
フィギュは白い紙を二つ折りにしたもので「そり」と呼ばれた少女の頭をトントンと叩きながら、じゃれるように言った。
なんだかその様子は、まるで叔父と姪がたわむれているようで、微笑ましかった。
「こちらはチョン・ヘジュン。そり、お前より年上なんだから、ちゃんとお姉さん扱いするように。ヘジュン、こっちは『そり』。本人はソル・ミエって言ってるけど、どう見てもそりのほうが似合うよね?」
「ああ、じゃあヘジュンお姉さんって呼びますね。私は、ソ・ル・ミ・エですからね。絶対『そり』じゃないです。先生のせいで私のあだ名、どれだけ変なのが増えたか知ってます?そり、スケート、スキー、スノーボード、雪だるま、イグルー、果ては氷の釣りまで。これ、なに?冬の遊び大全集ですか?」
「なんで?そり、かわいいじゃん」
ヘジュンがくすくす笑いながら言うと、ミエの桃のような頬が真っ赤に染まり、跳びはねるように怒った。
本当に悔しそうにプンプンしている。
「ああもうっ!ユン先生のせいで私、生きていけない~!」
ミエはドスンと乱暴に席に座り込み、フィギュとヘジュンはそのミエから少し離れたところに移動した。
ヘジュンがミエの背中を見ながら微笑んでいると、フィギュが手にしていた白い紙を彼女の目の前に差し出した。
「……?」
「準備する画材のリスト」
「ああ」
「最初は準備するものが多いから、けっこうお金がかかるよ。筆や絵の具はほとんどが輸入品だし。パレットは別に外国製じゃなくてもいいけど、なるべく軽いものを選んでね。4、5時間も絵を描いてると、それだけで手首が痛くなるから。画材箱は必須ってわけじゃないけど、用意しておいたほうが便利。ビニール袋に入れて持ち歩くわけにはいかないでしょ?見た目も悪いし」
「ぷっ」
「笑うと、似合うね」
「えっ?」
驚いたヘジュンが目を丸くしてフィギュを見つめたが、彼はもう視線をそらしていた。
横顔が赤く染まっていた。
あたりが騒がしくなったかと思うと、休憩時間が終わり、生徒たちが全員戻っていた。
席を整えて、すぐに評価が始まった。
ヘジュンは帰るタイミングを逃し、仕方なく後ろのほうに立って評価の様子を見学することにした。
***
穏やかな羊のようだったフィギュは、生徒たちの絵を評価する時には、まるで鋭い鷲のようだった。
「ミンジョン、ここ、ここ見てみろ。光はこう落ちているのに、どうして影がこんなふうになるんだ? 絵にウソを描くつもりか?
ジュヌ、お前は笑ってる場合じゃない。お前は光の方向すらはっきりしてない。影があちこちにある。これはなんだ? なんで絵を雑巾みたいにするんだ?」
「見たまま描けって言ったじゃないですか!」
「このやろう、見たまま描けって言ったからって、あの蛍光灯の光までそのまま描くとはどういうことだ? 絵を描く時は自然光が一つだけあると仮定して描けって言っただろう。お前は受験まであと1ヶ月もないのに、それすら分かってないのか?」
一息ついて、フィギュは次の絵に進んだ。
「ヨンジン、お前はかなり良くなった。でも質感がまだちょっと足りないな。ガラスと金属の質感を出すのは簡単じゃないけど、それでもステンレスのカップかガラスのコップか区別がつかないようじゃ困るよ。
ヒョンスは……」
ヘジュンは、穏やかな声で必要なことだけをしっかり伝えるフィギュの姿に、ぼんやりと見とれていた。
特別にハンサムというわけでもなく、特に格好いいわけでもないのに、どうしてこうも目が離せないのだろう。
評価の時間は約1時間半。
終わって10分の休憩時間になった。
ヘジュンは帰ろうと外へ出た。
エレベーターから実技室に入って来た時には気づかなかった自販機が目に入った。
そういえば、少し喉が渇いていた。
ガタン——。
ホットの缶コーヒーを手にして正面玄関に向かおうとした時、ふとフィギュの顔が思い浮かんだ。
1時間半もの間、休みなく話していたのだから、きっと喉も渇いているはずだ。
ガタン——。
ヘジュンはイオン飲料をもう一本買い、再びガラス扉のほうへ戻った。
扉を開けると、すでに誰かがフィギュに飲み物を差し入れたらしく、彼の手には青い缶が握られていた。
それを見た瞬間、なぜか意地悪な気分になった。
「生徒たちが先生に差し入れしてるのは、別にいいことじゃない。でもなんで、私こんな気持ちになるんだろう」
缶を手にしたまま、硬い表情で踵を返そうとした瞬間、誰かが彼女の肩に手を置いた。
「わっ」
「ヘジュン、帰るのか?」
フィギュだった。ジャンパーの両ポケットと両手に、なんと3本も飲み物を抱えていた。
この状況で、ヘジュンがさらに一本持って行っても荷物になるだけだろう。
彼女は反射的にイオン飲料の缶を後ろ手に隠した。
「なんだ?それ。どうして隠すんだ?」
「え、えっと、別に……」
フィギュはにっこり笑いながらヘジュンに手を差し出した。
「イオン飲料じゃないか。君が飲まないなら、僕にくれない?今、すごく喉が渇いててね。缶コーヒーや炭酸飲料じゃ余計に喉が乾くんだよ」
「もう、3本も持ってるじゃないですか」
「んー、生徒たちがくれたんだ。でも、あまりセンスないね」
ヘジュンのむくれた答えに、フィギュはおどけて返した。
「でも、それをあげた子たちががっかりするんじゃないですか」
「大丈夫さ。それに、そのイオン飲料、最初から君が飲むために買ったものじゃないだろ?」
「え?なんで……」
「君のコートの右ポケット、左と比べて不自然に膨らんでる。筒状で、長さからして缶コーヒーくらいかな?君は自分用に買ったのに、さらにもう一本持ってるってことは、間違えて2本出したわけじゃない。しかもそれがコーヒーじゃなくてイオン飲料。つまり、誰かにあげようと思って買ったんだ。でも、今日はここに初めて来たんだから、知ってる先生もいないし、生徒はさっきの『そり』だけ。でもあの子はイオン飲料嫌いでしょ。『変な味』って言って嫌がってたじゃないか。だから、たとえそりにあげるつもりだったとしても、最終的には僕のところに来てたよ」
「わあ、屁理屈」
ヘジュンは口では屁理屈と言いながら、内心ではぐさりと来ていた。
さすが美術をやっている人だ、観察眼が鋭い。
「屁理屈でもなんでも」
フィギュは変わらずにこやかに手を差し出していた。
どうせ渡すつもりで買ったものなのだから、これ以上持っている理由もない。
ヘジュンは両手でフィギュに缶を差し出した。
「わっ!」
フィギュが突然、両手で彼女の手ごと包み込んだ。
まるで火でもついたような熱い手だった。
あまりにも突然のことで、ヘジュンは声も出せず、ただ彼の目を見つめていた。
「おお、冷たくて気持ちいいな。僕は元々手にすごく熱がこもるんだ。でも君、手がずいぶん冷たいな?それにこんな冷たい缶を握ってたんだから、なおさら冷たくなったろう」
フィギュの背後で生徒たちがこちらを覗き見していたが、彼は手を放そうとしなかった。
「せ、先生。私、そろそろ……」
「うん。あまり凍りつかないようにね」
「え?手はもともと……」
「手もなるべく温かく保つように。手が冷えていると、線が思うように引けなくなるからね。それと、君の場合は手より心のほうが凍っているみたいだ」
ヘジュンは言葉が出なかった。
こんな短時間で、これほど自分のことを見抜いた人は、これまでユン先生ただ一人だった。
ポタリ——。
ヘジュンの目から、一粒の涙が床に落ちた。
「じゃあ、行きなさい。また明後日会おう」
フィギュは自然に手を離し、ヘジュンの肩を軽く叩いた。
どうして泣いているのかなどと聞いて困らせることもなく、自分も取り乱すことなく、穏やかな声で次の約束を交わした。
そのおかげでヘジュンは、気まずさもなくその場を後にすることができた。
外へ出ると、澄み切った冬の空が胸に沁みるほど青かった。
それまで鬱々としていた心が、ぱっと晴れたようだった。
「明日は南大門の画材屋さんに行ってみよう」
真冬へと向かうこの季節なのに、もう春が来たような気がした。
ヘジュンは大きく背伸びをした。
その様子を遠くからフィギュが見ていた。
沈んだ目をずっと気にしていたが、背伸びをする姿を見て、少し安心した。
なぜか、目が離せない子だった——