01. コンテとトンボ鉛筆-01
8年前、ヘジュンは大学卒業を目前にして休学した。
そして突然、美大受験のための予備校に通い始めた。5年もの間愛したソンミンを忘れるためには、何か他のことに没頭するしかないと思ったのだ。
ソンミンは彼女が自分を愛していると知りながら、ずる賢くその思いを利用していた。離れることもできずに彼女を繋ぎとめておきながら、自分は他の女性たちとの浮き名を流していたのだ。
疲れ果てたヘジュンは何度も彼のもとを離れようとしたが、その度に彼は巧妙な言葉で彼女の心に未練を残し、結局引き止めてしまった。
大学三年生の期末試験最終日。
約束の場所へ向かったヘジュンは、信じがたい光景を目撃する。
ソンミンが、自分の車の中で見知らぬ女性と愛し合っている姿を、まざまざと見てしまったのだ。
何も考えられなかった。怒りさえ湧かなかった。
家へ帰ると、ソンミンから何度も電話がかかってきたが、一切応じなかった。
そして彼にたった一通のボイスメッセージを残し、長い片想いに終止符を打った。
「もう、あなたの電話帳に並ぶ女の一人にはなりたくない。今まで迷惑をかけてごめんね。」
それを最後にソンミンからの連絡は途絶えた。ポケットベルも解約した。
もっと生活そのものを変えたいと思った。大学へ行くのも嫌だった。いっそ大学も変えてしまいたい、とさえ思った。
「そうだ、大学も変えちゃおう。どうせ楽しく通っていたわけでもないし。」
結局、高校時代の夢だった美大進学を目指すことにした。
いろいろと調べた末、地元の小さな画塾よりも、もっと規模の大きい受験予備校に通うべきだと結論づけた。
家からも近くて評判の良い教室を探し、平村に住む友人からひとつ推薦された。
予め電話をかけて、学院長との面談の時間を決めた。
12月は受験生たちが神経を尖らせて絵を描いている時期で、時間の約束を取り付けるのも簡単ではなかった。
しかもヘジュンが絵を始めようとするタイミングは中途半端もいいところだった。
12か月で合格した例がないわけではないが、失敗例のほうがはるかに多かった。
だが彼女は、今のこの煩わしい状況から抜け出せるなら、何だって挑戦してみようと考えていた。
簡単なテストの結果、基礎の形体は飛ばしてもよいとの評価を受けた。
高校卒業後は一度も絵筆を握ったことがなかったが、持って生まれた才能はそう簡単に消えないものらしい。
せっかく始めたからには、予備校側もできるだけ良い美大へ送り込みたいと言った。
年齢のこともあり、中途半端な美大に入ればかえって悪く言われるかもしれない、とも。
ヘジュンも同じだった。せっかく始めたのだから、良いところに入りたかった。
一時間ほど話し合った結果、静物デッサンを試験科目にしている大学を目指すことに決めた。
学院長のチャン・ギョンファンはその中でも「S大」を目指せと助言を添えた。
実のところ、「H大」を目指すのは少し荷が重いというのが彼女と学院長の一致した意見だった。
H大は美大の中でも最高峰であり、幼い頃からそこだけを目指して石膏デッサンに打ち込んできた子たちが山ほどいる。
ヘジュンに与えられた時間では、その子たちをすべて打ち負かすのは無理があった。
さらに、実技テストと併せて行った性格・適性テストでも、彼女は「心で感じる絵」を描くタイプで、H大のスタイルとは合わないという結果が出ていた。
やがて学院長は彼女を担当講師に紹介した。
「ユン先生、今日新しく入った生徒だよ。S大クラスだから先生のクラスに入れるよ。年も上だし、よく見てやってくれよ。」
「こんにちは、チョン・ヘジュンと申します。」
「あ、ああ。ユン・フィギュだ。ところで失礼だけど、年齢は?」
「えっと、22歳です。」
「高校生かと思ったよ。若く見えるのに年上だって言うからさ。」
「あ、敬語はやめてください。どうせ先生なんだし。」
ふたりの会話を聞いていた学院長が急に割り込んだ。
「まあ、ユン先生とは6歳しか違わないけど、先生は先生だからな。それからヘジュン、今日は必要な画材を確認して帰って。まだ受験生じゃないから毎日は来なくていい。月・水・金の静物デッサンの時間だけ来ればいいよ。今は受験生たちがまだ試験の真っ最中だし、2月から新しいクラスが始まったら水彩も始めよう。ユン先生、実技室に連れて行って、必要なものリストを書いてあげて。」
学院長の満面の笑顔を背に、フィギュとヘジュンは実技室へ向かった。
学院長室は7階、実技室は1階だった。
エレベーターに乗り込むと、フィギュが口を開いた。
「じゃあ敬語はやめるね。年齢からして、どこか大学に通ってたんでしょ?俺もそうだよ。K大の医学部にいたけど辞めて、兵役を終えてからまた受験してS大の西洋画科に入った。今は2年生。来年から3年生になる。君は西洋画科志望?それともデザイン科?」
「西洋画科です。デザインは、あまり……。」
不思議だった。このユン先生という人は、背もそれほど高くなく、体格も平均的だった。
顔立ちは好感が持てるほうで、特に優しい目元が印象的だった。
ただそれだけだった。
なのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。
失恋してから、たった半月しか経っていないというのに。
ましてや一目惚れなんて信じていなかったのに。
「やっと目が合ったね。」
にこりと微笑みながら言うフィギュの言葉に、ヘジュンは慌てて視線を逸らした。
気づけばいつの間にか、彼の目をまっすぐ見つめていたのだ。
このエレベーター、どうしてこんなに遅いのだろう。まだ3階にも着いていない。
「今日は模擬試験と評価の日なんだ。今はちょうど休憩時間だから、生徒はほとんどいないと思う。おやつでも買いに出かけている頃だよ。時間があれば評価を見学してみるといい。結構参考になるから。学院長も言ってたと思うけど、S大は『頭で理解するタイプ』の絵だからね。ある意味、1年準備して入るならH大より入りやすいかもしれないよ。」
穏やかな声で話しかけながら、エレベーターはようやく1階に到着した。
実技室は四方のうち二面がガラス張りの空間だった。
ドアも厚いガラス製だったが、なぜかドアも壁も新聞紙で覆われていた。
ヘジュンが不思議そうに新聞紙を指でなぞった。
「あれはね、今生徒たちが試験準備中だから、外の気配が気にならないように目隠ししてるんだ。ちょっとみすぼらしいけどね。」
無言でうなずきながら、ヘジュンは中に入った。
実技室の中では、銀色のアルミ製イーゼルが4つのグループに分かれて丸く配置されていた。
3つのグループは、それぞれしかめ面の中年男性の石膏像、首をかしげた美青年の石膏像、うつむいた悲しげな表情の女性の石膏像を囲んでいた。
もう一つのグループは、どう見てもゴミにしか見えない品々が積まれたテーブルを囲んでいた。
ヘジュンは少し顔をしかめた。
石膏像ならまだ絵になるが、このゴミのようなものを描いて何の意味があるのか、理解できなかった。
「あそこにいる仏頂面のおじさんは『アグリッパ』、巻き毛で首を傾げている男性は『ジュリアン』、うつむいて悲しげな女性は『アリアス』って呼ばれてるよ。」
まるで彼女の疑問を読んだかのように、フィギュが説明した。
そして彼女の視線が静物台に向いているのに気づき、少し照れたように続けた。
「ごちゃごちゃしてるだろ?静物デッサン用の静物なんだけどね。静物って言っても何でもありさ。描くものがなければ、生徒の持ち物から選ぶこともあるし。でも、実際の試験でも似たようなものが出るよ。試験の日にゴミ捨て場を覗けば、何が課題になるかわかるって話があるくらいだ。」
ようやく納得したヘジュンはうなずいた。
アルミ製のイーゼルが少し親しみ深く感じられた。
壁に貼られた石膏デッサンや静物デッサンの絵も一通り見て回った。
これからこの場所で新たな一年を迎えるのだ。そう思うと、少し気持ちが高まった。
「先生、それじゃあ準備するものを書いていただけますか?」
明るく微笑みながら頼んだその瞬間、フィギュの身体がぴくりと動いた。
何かに驚いたような顔だった。
「え?どうしたんですか?何か変なこと言いました?」
「い、いや。うん、とりあえずデッサンだけなら準備するものはそんなにないよ。4B鉛筆と消しゴムをたっぷり持ってきて。普段は『トンボ鉛筆』と消しゴムを使ってる。あと念のため、コンテも種類ごとに1本ずつ、木炭も。それと、画鋲かクリップも必要だな。どうせ1、2か月後には水彩も始めるから、この際全部準備しておくといい。必要な絵の具とパレットは、今からリストを取ってくるから、ちょっと待ってて。」
フィギュはそそくさとその場を離れた。
ヘジュンは「そうなのか」という顔で、ぼんやりと絵を眺めていた。
彼はガラス扉の隙間から彼女をそっと見つめながら、つぶやいた。
「どうしてだろう。ただ微笑んだだけなのに……。」
胸を撫で下ろしながら、彼は事務室へ向かった。
事務室には水彩クラス用の必要な画材が印刷された用紙がたくさんある。
わざわざ悪筆で暗号のようなメモを書いて、彼女を混乱させる必要はなかった。