S寮とラーメン
しいなここみ様「純文学企画」参加作品
「ウチの会社はさ、金いっぱい溜まるぞ!」
寮の食堂で同席した先輩がそう言った時、私は(またか・・・)と思った。
この話はもう三度目だ。オチまで分かっているのだが、私達は律儀に新人の役割を果たした。
「そうなんですか?!」
なるべく嬉々として先輩に問いかける。すると先輩はニヤリとして答える。
「ああ。残業に休日出勤で金使う暇無いからな」
そこで自分と同期の友人Aは落胆して見せた。そこから、先輩は先月休みは2日だけだったという話になり、休まない自慢に、仕事論に、将来は独立するつもりだという夢を聞かされ、後輩に対するアドバイスを頂くという流れになる。
どの先輩と話してもだいたい同じだったので、私もAもすっかり覚えてしまった。
当時、西暦2000年前後のIT系エンジニアは本当によく働いた。といっても、まだITバブルと言われる業界好景気が残っていた時期だ。働けば働くだけ残業代、休日出勤手当が出たので、言うほど苦痛でもなかったと思う。私も新卒入社1年目からボーナスのような月給をいただいたことは何度もある。それなりにやりがいがあった。
もちろんこれは、思い出が美化されているだけかもしれない。ただ、今振り返れば、悪くない思い出しかないのは事実だ。
また、年を取ってからの目で分析すると、ウチの場合は、会社側の仕掛けも上手かったなと思う。
当時の我が社は、新入社員の多くがS寮という、大きさだけが取り柄の社員寮に入った。
そこは一応個室ではあるが、四畳半の畳部屋に半畳の押入があるだけ。備え付けの家具なんて何もないので、みな布団と机とデスクトップパソコンぐらいを持ち込んで生活していた。
洗面所、トイレ、風呂はもちろん共同。
洗面所の水道からは絵具の筆を洗った臭いがする水が出てきた。その臭いは、一旦沸かしてカレー味のカップ麺を作っても消えないほど頑固だった。
風呂は足拭きマットから水虫が伝染るというので、みな脱衣場では爪先を上げて踵でヒョコヒョコ歩いていた。
食堂の定食に付いてくる納豆は、賞味期限が数日切れているのは当たり前。それぐらいは普通に食べられる。しかし、期限が半年切れてしまうと、納豆は石化したごとくカチカチになることはご存知だろうか?私はそれをS寮で実体験した。
そんな粗末な寮が故に、寮の悪口が立場を越えた共通の話題になり、「S寮経験者」という巨大なコミュニティに容易く身を置くことが出来る。
職場の内外で悪口を言いあえる仲間さえいれば、随分ガス抜きが出来るものだ。
そして、文句を言うわりには、みなすぐに寮に馴染んでいた。
私も多分に漏れず、半年もする頃には我が物顔で寮の休憩室でダラダラするようになっていた。
休憩室には、寄せ集めの不揃いの椅子、居住者が置いて行った山積みの漫画、そして古いビリヤード台が一台あり、数少ない休日に無理に遠出するよりは、そこにいた方が快適だったのだ。
その日は確か日曜だったと思う。
私は食堂で朝食を摂った後、休憩室に直行し、一人でビリヤードをしていた。
しばらくするとタライを持って、髪を濡らした同期のAが入って来た。
「徹夜?」
私は聞いた。この寮では朝風呂に入っているヤツはだいたい徹夜開けだから、挨拶みたいなもんだ。
「そう。検査で指摘5件食らってさ」
Aは答えた。検査とは、納品前の品質検査のことだ。そこで品質保証部門からバグを指摘されると、修正だけでなく、類似見直しや再発防止策の報告書提出など作業が膨大になる。
「お疲れ。今日も出勤?」
「いや、気合いで終わらせたよ」
「すげーな」
そんな会話をしながら、Aと私はビリヤードをしばらく続けた。
「うわっ、もうこんな時間か。食堂終わっちまった。腹へったな。。。朝飯食った?」
何気に時計を見てAが言った。10時を少し過ぎた所だ。
「食ったけど、食後のラーメンぐらいなら入るよ」
私は答えた。
「ラーメンか・・・良いけど、このヘン旨いラーメン屋無いよな・・・」
Aが考えこんだ。
「探索行く?でも腹減ってるなら・・・」
「いいね!」
私が自分の提案を取下げようとするのを阻止するようにAが乗って来た。
歩いていれば空腹も紛れるから大丈夫とのこと。
当時はチェーン店が進化しすぎる前だったので、『旨いラーメン屋』というのは貴重だった。ネット情報も今ほど充実しておらず、文字通り自分の脚で探索する価値かあるものだったのだ。
我々は3分で身支度をすると、寮を出て、迷わず通勤とは逆の方向に向かって歩き出した。
「ここ食ったことある?」
「あるけど普通だね」
寮の近くのラーメン屋や町中華を通り過ぎながら、そんな会話をして歩いた。
私もAも、幻の名店クラスを見つけようと意気込んでいたので、近間で軽々OKは出せない。
しばらく歩くと完全な住宅街になってしまった。
「こんな所には流石に店は無いよな・・・戻る?」
「いや、それじゃ探索にならないから進もう。時間もあるし」
そう。まだ11:00にもなっていないので、店を見つけたとて開いている時間ではない。どうせ時間は潰さなければいけないので、この時はまだ心に余裕があった。
我々は探索気分を味わう為、あえて知らない道、迷いそうな道を選んで進んでいった。
「なんか、隠れ家っぽい店があるよ。ビーフシチューだって。旨そうだな」
しばらく歩くと民家に交じって、TVで特集されそうなお洒落な店を見つけた。
「ビーフシチュー3,000円・・・高!やめよう。そもそも男二人で入るにはお洒落すぎる」
私たちは二人とも、汗で張り付いたTシャツに小汚いジーンズ、臭いそうな、実際、近づけばだいぶ臭うスニーカーを履いていた。明らかに場違いである。
「だな。そもそもラーメンじゃないし」
本来の目的を確認して歩き始めた。
またしばらく歩くと、チェーンの牛丼店を見つけた。
「さすがにここは無いな。ここなら寮の近くにもある」
「だな。わざわざここまで歩いて牛丼は無い」
既に1時間以上歩いていた。だから、『ここまで苦労して』という思考が我々の判断に釘を刺してくる。
しかし、徐々に我々の言葉からも『ラーメン』というこだわりが消え始めていた。
「最初はラーメン屋を探してたんだけどね、2時間歩いた結果、旨そうなハンバーグ屋を見つけてしまって、そこで食べてきた」
そんな風に他の友達に話す場面を想像し、それでも十分話のタネになるような気がした。いや、むしろ、そっちの方が話としたら面白いんじゃないかと。
正直、そろそろ足が疲れてきた。途中1回自動販売機で水分補給はしたが、随分汗もかいているので、際限なく喉が渇く。
次に適当な店を見つけたら、ラーメンでなくても強く提案しようと私は考えていた。特に名店でなくてもいい。普通のラーメン、中華、洋食、蕎麦、うどん、カレー、焼き肉、何でもいい。そんな店なら今までに何件も素通りして来た。すぐに見つかるだろうと。
しかし、そう気持ちを切り替えたとたん、まったく飲食店が見当たらなくなった。店と言ったらコンビニエンスストアが時々あるぐらいだ。
「2時間歩いて、結局コンビニでカップラーメン買ったってのも、話のネタになるよな」
「そうだな。もう少し歩いて何もなかったらそうするか」
どっちがこの提案をし、どっちが賛同したのかは正直よく覚えていない。間違いないのは、私もAもだいたい同じ気分だったということだ。
しかし、そうならば、この場でカップ麺を買ってしまえばよかったのにと後から思う。
心の底にある『でも今までの苦労を無駄にしたくない』というわずかな思いから、惰性でしばらく歩いてしまったばっかりに、とうとうコンビニエンスストアすら見かけなくなった。
「ここってさ・・・工場地帯だよな・・・」
店自体が何もなくなったことに薄々気づき、改めて周りを見渡して私が言った。
「だよな、何もねーな。ははは」
Aもそれに気が付いた。そして大笑いした。広い道路の両脇にはいつのまにか民家がなくなり、あるのは工場と田畑、そして広い駐車スペースと、そこに停まっているトラックやフォークリフトなどの重機だけになった。
「どうする?戻る?」
「でもさ、この道また帰るの嫌じゃね?そもそも道、あんまり覚えてないし」
「ははははっ、そうだな。テキトーに来すぎたな。帰れる自信まったく無いな」
そう言いながらも私たちは歩き続けていた。
「つーか、ここ、どこだ?はははっ」
「はははっ、まったくわかんねー!」
私とAは何か言うたびに笑いあった。
「とりあえず駅行こうか。そこでハンバーガーでも食べよ」
「そうだな。でも駅ってどっち行けばいいんだ?」
「そのうち車の看板あるでしょ。それ見ていこう。もしくはバス停でも見つけたら乗っちゃおう」
「そうだな。バスなんでいいものが世の中にはあったな。忘れてた!はははっ」
「まったく、オレら、何時代の人間なんだよ。はははははっ」
結局その方針が決まってから更に30分は歩いたと思う。旨いラーメン屋を探して3時間歩いた我々は、駅を見つけて歓喜した。
駅前の、最も有名なハンバーガーチェーン店でハンバーガーを食べながら、私は白状した。
「途中、変なテンションで笑ってただろ。でも、内心、けっこうビビッてたんだよね」
「一緒、一緒!。オレもそうだよ。はははははははっ」
ここでの笑いは、お互いようやく心底の笑いだったっと思う。
今と違って携帯で現在地や地図が分かる時代ではない。見知らぬ土地で迷うというのは、今では考えられない不安と恐怖があった。
しかし、不安は口に出すと増幅する。たった二人しかいない仲間の空気がそれで壊れたら致命的だ。悪い空気は道中の疲労感を二倍にも三倍にもしてしまう。だから我々はお互い努めて明るくふるまった。
「これってさ、徹夜で作業に追われている時の心理に似てるんだよね」
Aがボソっと言った。
「ああ、確かにそうだな。ネガティブなこと言っても作業の邪魔にしかならないから、明るくふるまうしかないんだよな」
私にも思い当たることは山ほどあった。
「昨日もそんなだったよ。まさか、こんな仕事のスキルが実生活で役に立つとはな」
「本当だよ。というか、お前、徹夜明けだったな。食ったら早く帰ろう。もう寝ろよ」
そんなことを言いながらも私たちはケラケラ笑っていた。
3時間かけた道のりは、電車ではものの数10分で戻れてしまい、そこで更に私たちは大笑いした。
1年後。
「ウチの会社はさ、金いっぱい溜まるぞ!」
私とAは、S寮の食堂で後輩に話をしていた。
「そうなんですか?!」
後輩が嬉々として聞き返す。
私とAは、残業に休日出勤で金使う暇無いこと、我々がいかに休まず働いてきたかの自慢などを語った後、でも、仕事の苦労って意外な所で役に立つんだという話をした。
了
お読みいただきありがとうございます。
前作『雀蜂』は「純文学と言えば、国語のテストの問題文」というイメージで書きましたが、今回は「純文学と言えば私小説」というイメージで書いてみました。
ただ・・・最後の後日談のオチは純文学としては邪魔な気もして、取ってしまおうか随分悩みました。
いまだにどっちがいいか自分でもよく分かりません。。