第6話 裏山に潜む者たち
唐突だが、俺は子どもの頃、空が飛びたかった。
小学校からの帰り道、頭上を優雅に飛んでいく鳥たちを見ては、あんなふうに空を飛べたらどんなに気持ちがいいだろうなといつも夢想していた。
しかし、そんな子どもの頃の俺に対して何か言葉を送れるとしたら、いまの俺はきっとこう言うだろう。
——やめとけ。怖いだけだ。
それが図らずも生身の体で空を飛んでしまった俺が送れる最高の助言だった。
そして現在。
約一〇分に及んだ空中遊泳は無事に終わり、俺はいま地面に立てる喜びを噛み締めていた。
人は失ってはじめてその偉大さに気づくのだと誰かが言っていたが、俺はその言葉の意味をいま身をもって実感している。
普段は意識すら向けない地面に対しての感謝の気持ちで胸がいっぱいだ。
ありがとう大地! ありがとう地球! 俺は今後なにがあっても立ちションなんて二度としません。ポイ捨てなんてもってのほかです。ビバ、リサイクル! ビバ、エコロジー!
……ふぅ、まあそれは置いておくとして。
そろそろ現実に目を向けなければな。
というかさっきから言動が俺らしくない。なんだよエコロジーって。そんな言葉初めて使ったわ。これはやっぱアレか、極度の緊張から解放されたことによる一時的なトランス状態に陥っているのか。
ああ、ダメだダメだ。そんなことじゃこれからの戦いについていけねえぞ、浅嶺賢治! まだ物語は始まったばかりじゃないか!
ここは一旦深呼吸をしよう。精神を落ち着かせ、これからの事態《非日常》に備えるんだ。
スゥー、ハァ〜。スゥー、ハァ〜……。
——よし。だんだんと落ち着いてきた。
冷静になったところで状況をあらためて確認してみよう。困難な事態を解決するためには物事を可視化して考えるのが一番だと偉い人が言っていたはずだ。……いや、知らないけれど。まあ、おそらく誰かが言っていたと思う。よく聞く感じの言葉だしな……。
とにかく俺はその曖昧な名言を信じ、この三〇分ほどで起こった事実についてを頭の中で並べてみることにした。
結果が以下の通りだ。
一、五時限めの終わりに春山紅葉が俺の教室へと乗り込んできた。
二、春山紅葉は唖然としている俺を無理やり教室から連れ出し、そのまま屋上へと引っ張っていった。
三、屋上にたどり着いた春山紅葉は俺を抱えて地面にむかってダイブ。
四、死ぬと思っていたら、なんやかんや空を飛んでいた。
……ま、こんなところだな。うん、並べてみると実に単純なことだ。前回のあらすじがたった四行で終わってしまったぜ。
あとはコレを考察していくだけだ。
まあ一、二は問題ない。まだ日常の範囲内だ。ヒロインが主人公を無理やり連れ出すというのは、フィクションの世界ではよく見る光景だ。ここが現実の世界であることや、仮にそうでなくても俺が主人公の器かどうかという判断はこの際無視しよう。
それはいま重要なことではない。
ここで大事なのは、一と二は現実として容易に起こり得るということだ。
だから、問題は三からということになる。
それでも一〇〇万歩譲ってまだ三は現実として許容できる範囲内だ。あるいは春山紅葉はただバンジージャンプでスリルを味わいたかっただけなのかもしれない。命綱がないなんていうのはスリルがあるってもんじゃないが、細かいことはどうだっていい。
ともかく屋上から落下するというのはリンゴが木から落ちるのと一緒で、地球上の人類として適用されるべき物理法則に則っていることは確かだ。
ゆえにここで真に問題として取り上げるべきは四となる。Q.E.D. 証明終了。よし。誰かお茶の用意をしてくれ。熱いのを頼む。
……。
………。
——いやアホか! なにが『Q.E.D. 証明終了。』だ! なにも解決してねえよ、バカ!
——なんやかんや空を飛んでいたってなんだよ! あり得ねえって! 俺はクマバチか! ダチョウだってもうちょっと真面目な理由で飛べるようになるぞ!
……ああ、ダメだ落ち着け。また頭がトランスしているぞ。しっかりしろ、浅峰賢治。クールになれ、お前はやればできる男のはずだ。
もっと冷静によく考えるんだ。
俺たちは空を飛んだ。それは覆しようのない事実だ。しかし人間が生身で空を飛べるはずがない。それは有志以来変わることのなかった普遍的な真理だ。
だが、逆に言えばどうなる? どう考えれば人間が単身で空を飛べるという状況を説明できる?
そうだ、浅嶺賢治。常識で考えてみるんだ。人間が生身で空を飛べるわけがない。クマバチだって空を飛べる理由は科学的に解明されたんだ。今回だって何かしらの力が絶対に働いているはずなんだ!
俺は考えに考え、そして現実的に考えられる説明の仕方として、以下の三つの仮説を思いついた。
一、機械の力で飛んだ。
二、実は滑空だった。
三、現在進行形で俺の見ている夢。
しかし、それぞれの解答は次のようになった。
一、タケ◯プター的な物が発明されたとは聞いたことがないし、そもそも春山の身体にそれらしき機械は付いていなかった。却下。
二、賀茂橋高校の制服はウイングスーツではない。却下。
三、もはや説明を諦めている。が、一応ほっぺたをつねってみる。痛かった。却下。
結論。どうやっても人間が生身で空を飛べる理由を説明できない。Q.E.F.
よし。今度こそ間違いなく解を得た。あースッキリすっきり。これで今日もグッスリ眠れるぜ。うん、やっぱ人間が空なんて飛べるわけないよなー。はっはっは。
…………まあ、俺たちは実際に空を飛んだわけで。
春山の体にタケ◯プターなんかはついていなかったわけで。
それはつまり、春山紅葉は自力で空を飛べることができるというわけで。
現実を認めたくなくて長々と述べてきたが、なんてことはない、結局のところ問題はひと言で表せられるのだ。
——ああ、いったい春山紅葉は何者なんだよ。
俺はそこでようやく件の少女へと視線を向けた。もちろん元凶である春山紅葉はずっとそばにいた。何かを探すようにうろうろと周囲を歩き回っている。
現在俺たちがいる場所は学校の裏手にある賀茂橋山の中腹ほどにある茂みの中。
空から舞い降りた俺たちのことなど気にもとめずに草木は風に揺れ、虫たちは地面を蠢いている。羨ましいほどに変わらない日常がそこにはあった。
そんな日常の中を、非日常の権化である春山紅葉はごそごそと地面をあさっている。うん、なにをしてるんだろうね。きのこでも探しているのかな? まあ、毒きのこには気を付けろよ。素人じゃ見分けがつかないっていうからな。
考え疲れた俺はやることもないのでしばらくその様子をじっと見ていた。ぼんやりと木にもたれかかりながらじーっと。
……どうでもいいが、忙しなく働いている女の子を腕組みしながらじっと見ている光景は変態じみていやしないだろうか? 全くの誤解であるのだが、俺はなんだか急に居心地が悪くなって春山に声をかけようかと動き出そうとして——。
——ふいに違和感に襲われた。何か意外な物を見つけてしまったような、視界の端に紅白模様の服を着た男を見つけた時に感じるような違和感。
なんだろうと思ったが、すぐに理解する。
春山が探っている場所のほど近くに、周囲の地面とは色が違っているところがあったのだ。
些細な違いだが、なんというか、普通の地面の色はビーバーみたいな色をしているのに、そこだけはカピバラみたいな色をしているような気がする。
気になりだすとダメだった。イルカのような好奇心にみちびかれるままに、俺はカピバラ色の地面へと歩いていく。そしてそっと手で撫でるように触れてみた。
「……なんだ、これ?」
地面のすぐ下にひんやりとした鉄のような感触があった。明らかに自然物とは違う感触。間違いなく何かが——人工物がある。今度は倉庫に溜まったほこりを落とすように大きく土を払ってみた。
現れたのは、直径一メートルほどの円状の物体。銀色で機械じみているが、どうやらマンホールみたいだった。
「……なんだ」
肩透かしをくらった気分だ。俺は踵を返そうとして、しかしすぐに動きを止める。
……いや、まてよ。おかしくないか。ここって山の中だよな。なんだってあんな物があるんだ?
そんな考えに従ってもう一度よく観察すると、マンホールらしき物体の端に何か電卓のような数字盤があるのに気がついた。上部にモニターが付いていて、四桁の数字を入力できるようになっているみたいだった。
俺は手を伸ばし、少しの躊躇の後、適当に番号を打ってみることにした。
1、2、1、3っと。
「——いてぇッ!」
すると、ピリリとした痛みが指を走り、思わず声が出てしまった。その声に春山が寄ってくる。
「……どうしたんですか? ヘビにでも咬まれました?」
穏やかな声で物騒なことを言う春山を無視し、俺は状況を説明する。
「あ、いや、なんか変なものがあってさ……それに触ったら電気が流れた……ほら、ここの……」
と、俺が指し示した先をみた春山の顔が変わった。小さな変化だったが、不思議とはっきりわかった。
「……これを探してたんです。ありがとうございます、先輩」
礼を言う春山に、俺は困惑しながら言った。
「なんなんだよ、これは」
「……秘密基地の入り口です。わたしたちの」
「……は? ヒミツキチ、って、えっ? 秘密基地のことか?」
こくりと頷く春山に俺はおかしな事実を指摘する。
「いやでも秘密基地って……じゃあ何ですぐに見つけられなかったんだよ。普通入り口の場所くらい覚えてないか?」
「……入り口は毎にち変わるんです。侵入者対策で」
「毎にち変わるってお前……」
……いや、もう深くは考えないようにしよう。きっと考えるだけ無駄なんだろうよ。
考えるな、受け入れろ。それが非日常に直面した時に取りうる最善の方法なんだ。
……って誰かが言っていた気がするんだ。いや、ホントに。……たぶん。
そうして春山がパスワードを打ち込むと、駆動音と共に新たな機械がマンホールから迫り上がってきた。
はへー。よくわからないが、何だか凄いな。映画みたいだ。
俺のその子どもじみた感想を込めた視線に気づいたのか、春山が言葉を付け足してくれた。
「……二段階認証になってるんです。侵入者対策で」
へーそうなのか。じゃあ今上がってきた機械で人を識別してるってわけか。へー。で、肝心の識別方法は静脈認証か? 網膜スキャンか? はたまた未知の識別方法なのか?
俺の勝手な期待に応えるように、ブーンという重厚な作動音があたりに響いて、
『——はいもしもし? だれぇ?』
なんともフランクな応答だった。
……ああ、ダメだ正気に戻っちまった。これは素直に受け入れられそうにない。
だって心底がっかりしたんだぜ? なんだよ、ただのインターフォンって。そんなもん横にでも付けてろよ。なんだってそんな仰々《ぎょうぎょう》しい仕組みにしたんだ。俺の心を弄ぶなよ、バカやろう……。
春山はけれどそんな俺の脳内失望などお構いなしに、
「……わたし」
と一言。
『うむ。合言葉は?』
「……弁慶はよわむし」
いや何だよその合言葉。弁慶がよわむしって……。弁慶ほど強そうな男を俺は知らないぞ。豪傑だぜ? 刀狩だぜ? 立ち往生だぜ?
『おっけー。いま開けるわ』
しかし俺の脳内抗議もむなしく、合言葉は無事承認されたらしい。バコンッと勢いよくマンホール改めハッチが開いた。……いいのか、それで。……まあ、いいんだろうな別に。
中に入っていこうとする春山だったが、その場を動かない俺を見るとこてんと首を傾けて、
「……先輩? 入りますよ?」
「あ、ああ……」
そうして春山に促された俺も怪しげなハッチの中へと入っていくのだった。
……はぁ、ほんと、俺はいったいどこに向かってるんだろうな。いまだ俺の行き着く先は予想もつかないのである。