第4話 春山紅葉の襲撃
「——春山紅葉と遭遇した」
五時限目が終わるや否や、俺はすぐに天城の机へと赴いた。気怠そうに数学の教科書をしまっていた天城は、俺のその言葉に一転、メガネの奥に興味深げな瞳の色を浮かべて、
「ほう? で、どうだった? やつの印象は」
と訊いてきたので、俺は屋上での春山紅葉との会話を思い出して答えた。
「まあ確かにちょっと変わったやつだったよ」
「ふふ、だろうな。どうだ? 俺の言った通りだっただろ」
「ああ事前に聞いといてよかったぜ」
天城の言葉に同意するように頷いたが、もちろんこれは嘘だ。なにしろ俺はあのとき課題に必死で天城の話なんか聞いていなかったのだからな。
どうしてこんな嘘をついたのかといえば、俺はこのとき春山紅葉についての情報を得ようと思っていたのだ。そしてそれには再度天城に話してもらえるのが一番いい。餅は餅屋、情報は情報屋にということだ。
だが、素直にこの前は話を聞いていなかったからもう一度と伝えるとさすがの天城も怒るかもしれないので、俺はこう言う事にした。
「それでなんだが……すまんが天城、もう一度春山について聞かせてくれないか。実際に会って受けた印象の違いをチェックしたい」
ちょろいもんで天城はその俺の言葉に「ああ、いいぜ」と答え、話を始める態勢に入った。
悪いな天城、今度一〇円チョコでもおごるからさ。俺はそう心の中で誓いながら、こんどこそ黙って天城の話に耳を傾けた。
「いいか? この前も言ったが、これは春山紅葉とクラスが一緒だという俺の中学からの後輩を通して聞いたことだ。事実であることはまあ間違いないが、それでもそいつの主観が入り込んで大袈裟に話が歪められているところもあるかもしれん。そのことに留意して聞いてくれ」
天城という男は自分の集める情報の信憑性について、ある種のプライドを持っているらしい。とりわけ今回のような人に関する噂話に関しては慎重で、いつもそういう話をする前には、このような前置きをすることを忘れない。
それが情報屋としての信念からなのか、はたまた責任を逃れたいだけなのかはわからないが。
まあとにかく、俺が頷いたのを確認してから、天城は話を進めた。
「——まず、我が校における春山紅葉伝説が幕を開けたのは、遡ること四月の六日、賀茂橋高校の入学式の日のことだ。春山紅葉はその入学式の最中にとある事件を起こしたことが原因で、校内に知らぬものなしの有名人となっていったってわけだ。もっとも、式典中からすでに新入生たちの間ではとんでもない美少女がいると注目を集めていたそうだがな」
「まあとにかく、そのとある事件は校長が祝辞を述べている時に起こった。いつものように校長がだらだらと話を続けているときのこと、突如なにを思ったのかそれまで真っ直ぐ壇上に目を向けていた春山紅葉がすくっと席を立ち上がって、体育館の外へと飛び出していったのだ。しばし校長含め、体育館にいる誰もがその行動に呆気に取られていたという。
「ざわざわと困惑する声が波紋のように教師から生徒、生徒から保護者へと広がっていった。『え? なにあの子? どうしちゃったの?』『やべぇ、面白くなってきやがった!』『おい! どういうことだ! 早く連れ戻せ!』などという騒めきが方々《ほうぼう》から起こった後、すぐに何人かの教師たちが春山紅葉を追いかけていったらしい。さらに新入生の中にも好奇心旺盛な奴らがいて、同じように体育館を飛び出した。俺が話を聞いた後輩もその一人で、彼ら彼女らは春山紅葉の後を追いかけ、
——そして見たのだそうだ。
両手をまっすぐに空に向かって差し出している春山紅葉の姿を。その姿はまるで某少年漫画の必殺技みたいだったとは後輩の言葉だ。そしてそんな春山紅葉の傍らでは、彼女を連れ戻そうと複数の教師たちが何か言葉をかけたり、強引に手を引っ張って連れ戻そうとしていた。だが春山紅葉は何かが乗り移ったみたいにひどく抵抗し、遂には、『邪魔しないでください! これはとても大事なことなんです!』と鋭い声で教師たちにむかって叫んだという」
「それは異様な雰囲気で、後輩が言うには、春山紅葉はまるで悪魔払い中のエクソシストのように険悪な表情を浮かべていたらしい。教師含め、誰もが言葉を失って立ちすくんでいる間も、ただひとり春山紅葉は空へとまっすぐに両手を伸ばし何事かを呟いていたそうだ」
「だが、そのあとどうなったのかについては後輩は知らないらしい。我にかえった教師たちから『な、何してる、おまえら! すぐに体育館に戻りなさい!』と言われて、ぶつぶつと不平をこぼしながらも、仕方なくその場を離れたそうだ。戻った体育館では春山紅葉抜きで式は執り行われていき、以降はつつがなく進んで無事入学式は終わったということだった。
「気になる春山紅葉と言えば、途中で何事もなかったかのように静々《しずしず》と体育館に戻ってきて、また元のように真っ直ぐ壇上を見つめていたそうだ」
「入学式が終わり、教室に戻った一年三組の生徒たちはもちろん春山紅葉の席に集まって質問攻めにしたらしい。さっきのは一体どういうことなのか? 何かのパフォーマンスだったのか? という具合にな。
「だが当の春山紅葉は、そんな矢継ぎはやに飛んでくる質問にはまったく答えず、クラス中から注がれる好奇の視線から逃れるようにじっと俯いて黙っていたそうだ。そこに教師たちに鋭く叫んでいた春山紅葉の面影はかけらもなかったと後輩は頭をひねるように言っていた。ただまあ、ときおり蚊の鳴くようなか細い声で何かを言っていたようだが、聞き取れたものはおらず、次第に教室内には白けた雰囲気が漂っていったらしい」
「だが、そのときまたもや驚くべきことが起こった。なんとクラスに生徒会長がやってきたらしいのだ。そうだ、あの生徒会長だ。会長は困惑する一年三組の生徒たちに視線を走らせてから、口元でにっこりと笑みを浮かべてこう言ったそうだ。『春山紅葉さんは宗教上の理由から、まいにち正午から三十分間お空に向かってお祈りをしなければいけないの。だからこれからも四限目の途中で抜け出したりすると思うけれど、気にしないでこれからも接してあげてくれるかしら』と。」
「なぜ担任が説明せずに生徒会長に任せたのかはいまをもって謎だが、小さな体から受けるその異様な迫力に肯くしかなかったと後輩は言っていた。そして生徒会長はそれを確認すると、なぜか春山紅葉を連れて教室からでていってしまったらしい。クラスが呆気に取られている中、入れ替わるように担任が入ってきて、そこからはもう平常通りだ。担任の挨拶、これからの予定といったことを事務的に話して終了。結局その日春山紅葉が教室に戻ってくることはなく、担任がそれについて触れることは一切なかったらしい。まるで白昼夢でも見ていたような気分だったと後輩は俺にこの話を語ってくれたときに言っていたよ。
「けれど翌日からも普通に登校してきたからやっぱりあれは夢じゃなかったんだ、ってな。とにかくまあ、以上が俺が知っている入学式での出来事だ。くれぐれも、あくまで伝聞だということを忘れないでくれよ」
天城はときおり水筒でお茶を飲んで喉を潤しながら、ここまで一気に話をし終えた。俺はときどき相槌をしたりしながらも、黙って聞いていたのだった。
「ふ〜ん。なるほどな。じゃあつまり春山は毎日午後〇時から三十分間、学校のどこかしらでそのお祈りとやらをしてるってことか」
「まあそういうことだな。そして入学式以降、それを目撃した上級生にも徐々にその存在が広がっていき、その美貌と相まって春山紅葉という名を一躍有名にしたというわけだ。今ではもうほとんどの賀茂橋生は春山紅葉のことを知っていると言っても過言じゃない」
だからお前が知らないと言った時は驚いたぜ、と眼鏡をかけたカピバラみたいに天城は笑った。悪かったな、情報弱者で。仕方ねえだろ俺は部活にも入ってないし、お前みたいにこの辺の中学出身じゃねえんだからさ。まあいいや。それより気になることがある。
「それで、今の教室での春山の様子はどうなんだ?」
「後輩の話によると、腫れ物に触るような感じらしい。入学当初はまだお近付きになろうとする男や、委員長気質な女が声をかけていたそうだが、そいつらに対してもあまり芳しくない受け答えをしたそうでな。ああつまり、話しかけられても黙って俯いていたってことなんだが……。今ではもう事務的な会話以外はほとんどしなくなったそうだ」
まあ、さもありなんってところだな。入学式でそんな奇怪な行動をとるクラスメイトがいたら、俺だってしばらくは近づかないだろう。とりあえず様子を見守るのが関の山だ。誰かに話しかけられても、ずっと俯いてるだけならなおさらだと俺は思った。
話に一段落ついたところで時計を見ると、もうそろそろ六時限目が始まる時間だった。
俺が天城に礼を言い、自分の席に戻ろうとした、まさにそのときだった。
「——……先輩!」
誰かが教室中に響き渡る鋭い声をあげた。なんだか聞き覚えのある声。教室中の視線がその声のした方、つまり教室前方の入り口へと向けられる。もちろん俺も天城も同じように視線を向けた。
果たしてそこには春山紅葉がいた。誰かを探しているかのように教室の中をキョロキョロと視線を走らせている——っと目が合った。同時に、彼女の視線が俺にむかって固定された。え、もしかしてあいつが探してるのって……俺? いや、まさかな。
その間にも教室内には「お、おいアレ春山紅葉じゃね」「うそっあの子がそうなの? すっごく美人!」「ってかおい先輩って誰のことだよ、おまえか?」「馬鹿ちげえよ、おまえじゃねえのかよ」というような会話が至る所で囁かれていた。
そんな祭りのような雰囲気の教室の中を、ついに春山紅葉は一歩踏み出してきた。ざわざわと騒ぐクラスメイトたちへは脇目もふらず、イノシシのようにまっすぐ目標に向かって歩みを進めていく。
そしてたどり着いたのは窓際一番後方の席。そこは天城の席で、もちろん今そこには俺もいた。春山紅葉はしかし、天城へはちらりとも視線を向けず、そのシャム猫のような瞳は俺に向かって固定されていた。
確信する。どうやら彼女の目的は本当に俺らしい。
春山紅葉は、じっと俺を見つめてきていた。クラス中が俺たちの動向を固唾を呑んで見守っている気がする。これは、俺が何か言葉を発しなければいけないのだろうか。そう思っていると、いきなり彼女にガシッと腕を掴まれた。華奢な体に見合わない力強い掴み方だった。
そして、
「——わたしと一緒にきてください、先輩」
有無を言わせない口調でそう言って、春山紅葉は俺の腕を持ってずんずんと教室の外へと俺を引きずっていく。
「お、おい! ちょ、待てって! いきなりなんだよ! どこ行くんだよ!」
必死に声を掛けるが、春山紅葉は俺の言葉に答えることなく黙々と俺を引っ張り続けた。
そのドーベルマンのような強い力に、俺はなす術もなく、ただ流れに身を任せるしかなかった。教室を出る瞬間、ぽかんと呆気に取られている天城の表情が目に入った。日常ではあまり見ることのないその珍しい天城の表情に、俺は非日常の始まりをひそかに感じるのだった。
ああ、いったい俺はどこに連れていかれるのやら……。
……。
……で、まあ、これは後に天城から聞いた話なのだが、その時の教室ではこんなことが囁かれていたらしい。
『な、なあ。いま春山紅葉に引っ張っていかれた奴って……誰?』
『さあ、あんな奴クラスにいたっけか? 別のクラスのやつなんじゃねえの?』
『もうっアンタたちなに言ってんのよ、クラス替えして一ヶ月経ってるでしょうに』
『じゃあお前あいつが誰だかわかんのかよ?』
『え! えぇ! え〜と、確か……そう! あさだくんよ! わたし去年もクラスが一緒だったから間違いない!』
愕然としたね。
え、俺のクラスでの扱いってそんなもんだったのかよ、てさ。
もっとこう、ほら、なんていったらいいの? カーストってやつ? けっこう上の方だと思っていたんだけどな……。
まあ、完全な余談なんだがな……。