「アクセル」
その時、正面から物凄い速さで飛んでくる小さな物体が見えた。
それは、トウヤの顔の側面を通り抜けると、エステルの足元の地面に刺さった。
同時に、エステルは言葉にならない嗚咽を漏らした。黒い体が震えている。
「落ち着け。イリスは無事だ」
聞き覚えのある男性の声が聞こえた。
砂時計と思しきシルエットの隣から、何かを抱えている人間がこちらに向かってくるのが見えた。
何かを抱えた人間は、トウヤの前に立ち止まった。
月明かりは男を照らした。
清潔感あふれるショートヘア、色気のある整った顔立ちの男。
「アクセル」トウヤは声に出した。
「よう、弟弟子」
アクセルが両手で抱えているのは、イリスだった。
体はぐったりしていて、目蓋が閉じかけている。眠気をこらえているのだろう。
――生きてる!?
涙が溢れそうになった。
どす黒くくすんでいた胸中に光が差し込む。
「ほら、女の子の前だぞ。さっさと立つんだ。そんで、この子をよろしく。俺は、カスミ一筋だからな」
トウヤは立ち上がった。
剣を鞘に納める。
両手が空いたので、アクセルからイリスを受け取った。
両腕に圧し掛かる、愛おしい命の重みが心地よかった。
「イリス!」
トウヤは、人目憚らずに大きな声を出した。
「……っ、トウ、ヤ」
イリスは眠そうな声でトウヤの名を口にすると、そのまま目蓋を閉じた。
小さな寝息が聞こえる。
トウヤは安堵の溜め息をついた。
緊張が解け、ささくれ立った神経が落ち着きを取り戻す。
「みんな、化け物の影には触れるなよ。身動きがとれなくなるぜ」
アクセルが言った。
その直後、影を避けつつエステルに近寄った。
トウヤは、その様子を目で追いかけた。
「さて、こいつをどうするべきか」
エステルは、全身をわなわなと震わせている。
しかし、アクセルの言った通り、手足は動かせない模様。
そんな中で怪しく光る瞳孔だけは、アクセルに向いていた。
「何だこいつ? 人間、じゃないのか?」
「アクセル様、おそらく物の怪の類、魔族と思われます」
「おー、カスミ」
「アクセル様、ホトケの前です。もう少し自重してください」
「ホトケ? どこに?」
トウヤがアクセルを注視してる横から、カスミとライラがやってきたようだ。
「小僧。随分、苦労したみたいだな」
ライラは、トウヤに声をかけた。
「苦労だなんて……俺、そんな」
「浮かない顔をしているが、何があったんだい? イリスは無事に見えるが」
トウヤは、ライラに事の顛末を話した。
エステルが魔族であること。
話題になった遺体とバルナバスは、エステルが犯人であること。
自分がエステルと戦った、だけどトドメを刺せなかったこと。
それが原因で、イリスを危険な目にあわせた事。
まるで懺悔をするかのように、覇気のない声で淡々と話した。
ライラは、トウヤが話をしてる間は決して揶揄することなく真剣な面持ちで、ひたすら「うん、うん」と相槌を打った。
トウヤが話を終えると、ライラはトウヤを見上げて一言「大変じゃったろう」と言った。
ライラの言葉が、ずしりと心に響いた。
今のトウヤは、バルナバスの死を引きずっている。
しかし、エステルとイリスが生きてる現実が、暗雲を立ち込めてたトウヤの心に一筋の光を差し込んだ。
亡くなった命は返ってこない。
それでも、少しだけ心が軽くなった気がした。
ライラの指示で、バルナバスの遺体は頭部含め衛兵達によって回収された。
手の空いた衛兵には、ドミニクの召喚を命じた。
トウヤは、ドミニクが到着するまで現場で待機することを、ライラに命じられた。
理由は、当事者且つドミニクとは旧知の間柄だからだ。
トウヤは、ライラの指示に従う事にした。
本当は一刻も早くイリスをベッドに運びたかったが、今ライラ達と離れる事は得策では無い、と判断したためである。
イリスは今、トウヤの背中で安らかに眠っている。
「アクセル様。見事な影縫いの術ですね」
「修業の成果ってやつさ」アクセルは得意げに言った。
――影縫い、って……え!?
「どうした? そんな不思議そうな顔して」
トウヤの視線に気づいたのか、アクセルが声をかけてきた。
「えっと、イリスがどうやって助かったのかな、って」
「お前、本当に日本人か? 変わり身の術だよ。と言っても、かなり際どかったけどな」
――忍者? こういう中世ファンタジーに忍者って、ゲームの設定だけかと思ったんだけど。
「そうですね、アクセル様。オリベ様にグリモアを披露してあげてください。同じ日本人なら、きっと喜びますよ」
「カスミの頼みなら仕方ない」
アクセルが右手を前に突き出す。すると右手から一本の巻物が出てきた。
芯を中心に紙を巻き取って紐で結んでとじる、あの巻物である。
アクセルは慣れた手つきで中央の紐を解くと、両手でそれを広げた。すかさず、文字と思しき物が書いてある面をトウヤに向けた。
「どうだ? 読めるか?」
トウヤはそれを見て、呆気にとられた。
その文字は辛うじて漢字と平仮名が書いてある、という認識が出来る程度で、今のトウヤの知識では解読ができないのだ。
「達筆すぎて、俺には読めないよ」
「未来の日本では、書道が廃れているのでしょうか」
「書道は習いますけど、こんな変な文字は書きません」
それを聞いたカスミは「はぁ……」と嘆息をつくと、肩を落とした。
「ちなみに俺も読めない。だからカスミにグリモアの翻訳をお願いして、その結果をもとに俺が魔法の修業をしてるのさ」
「忍術です!」
カスミが語気を強めて言った。どうやら強いこだわりがあるようだ。