「それは、こっちの台詞だ」
イリスとトウヤは、日課の放課後の訓練を終えて、家路に向かっている。
辺りは暗いが、月明かりとかがり火が家路を照らす。
かがり火は事件以来、警備増強の施策として、施設から施設を繋ぐ道に等間隔で設置されたのだ。
「何か、変ね」イリスがぽつりと呟いた。
「そうか? 火の灯りに慣れてないだけじゃないのか? 最近、設置されたみたいだし」
「違うわよ。うーん、何だろ」
イリスは顎に手を当てている。思案を巡らせてるようだ。
周囲を軽く見まわしたトウヤは、特に違和感を覚える事はなかった。
「わかった! 衛兵の姿が無いのよ」
「言われてみれば、確かに見ないけど……サボってるだけじゃないのか? ほら、二人目の犠牲者は未だ出てないし」
「何でトウヤは、危機感がないのよ!」
イリスの顔には、焦りがうかがえる。
反対にトウヤは、のほほんとしている。
トウヤに危機感が無い理由は三つある。
一つ目は、生前住んでた場所が、夜道で事件に遭遇するのは稀なくらい治安の良い日本に生まれた事。そのため、夜道を歩く事にネガティブがイメージがない。
二つ目は、常軌を逸した訓練を通じて、戦いに対する強靭な精神力を身につけたためである。
特にトウヤの場合、剣術が上達した事で得た強さと幾度となく死の淵に立たされた事で、痛みと恐怖への慣れが相まって、土地勘のある士官学校の敷地内なら月の無い夜でも昼間と変わらない精神状態で出歩けるほどに成長していた。
三つ目は、剣や魔法が飛び交う模擬戦に勝利した経験と実績によって、確固たる自信がついたためだ。
そんな精神的にも肉体的にも大きく成長したトウヤも、イリスに遅れて異変を察知した。
夜風にのって、鉄の匂いが鼻をついたのだ。
トウヤは身構えた。
イリスの体が小刻みに震えてる。
嫌悪感をもよおす鉄の匂い。
それは、訓練で嫌と言うほど嗅いできた血の匂いだった。
トウヤは、腰に帯びた剣に手をかざした。
顔を引き締め、神経を張り詰める。思考の余地を残したままで。
ざっ、ざっ、と砂利を踏む音が聞こえる。
トウヤとイリスは、音が鳴る方に体を向けた。
音が次第に大きくなる。
トウヤの体は、程よい緊張感ではらわたが震え、精神の高揚で熱くなっている。
「やー、トウヤにイリスちゃん。奇遇だね、こんな夜遅くに」
呑気な口調、だけど聞き覚えのある声だった。
しかし、トウヤは警戒心をより一層強めた。
濃厚な血の匂いは、声の発生源から漂ってるためだ。
イリスは真剣な面持ちで左手で弓を、右手で矢を握り始めた。
トウヤは、血の匂いをまき散らす者に声をかけた。
「それは、こっちの台詞だ。エステル」
トウヤは剣を抜いた。抜き身の刃が月明かりの下で映える。
「何で、二人ともそんな怖い顔してるのかな」
「エステルが怖いからさ。何で、君から血の匂いがするんだ」
「ちょっとー、女の子にそれ言うのは失礼だよ」
「それじゃ、口元と両手にべったりついた血は、何なんだよ!」
「ああ、これ?」
その時、エステルの右手の近くに、楕円形の影が見えた。
エステルの右手とは無数の糸で繋がっているようだ。
かがり火の灯りの外にいるせいで輪郭しかわからない。
「あげるよ」
エステルは右手の楕円形の物体を、トウヤに向けて放り投げた。
放物線を描くそれは、地面に落ちて転がった。
そして、トウヤの足に当たる事で止まった。
トウヤをそれに目を向けた。
その瞬間、戦慄した。
腕から力が抜け、剣を落とす。
腰が抜けて、その場でへたり込んだ。
楕円形の物体――それは、バルナバスの面長な頭部だった。
トウヤは「ひいっ!」っと小さく情けない悲鳴をあげると、座り込んだ姿勢のまま、少し後ずさった。
砂利のこすれる音が辺り響く。
「バルちゃんの頭、固いからさ」
エステルは右脚で地を踏みつけた。
トウヤの側に、土の棘がはえる。
体が棘の先端に覆いかぶさる。
土の棘が隆起する勢いで、体が宙に舞い上がる。
トウヤの体は、理解の及ばない恐怖に支配されていた。
自分の体が宙に上がってる事を認識しないまま、受け身を取る素振りも見せず、そのまま地面に叩きつけられた。
強い衝撃による痛みと痺れが体中に広がる。
「トウヤ!」イリスが叫ぶ。
エステルは両の手の平を地面に叩きつけた。
すると、三人を取り囲むように土が隆起した。
それはやがて、身の丈の三倍近くある壁になった。
壁は三人の閉じ込めている。
鳥でもない限り、外部から中を見る事は不可能である。
「これで邪魔者は入らないし、中も見られない」
エステルは言い終えると同時に、両腕を顔の前で交差させた。すると、エステルの肌が変色した。
壁の内側に差し込む月明かりが、エステルの変貌を映し出す。
エステルは、両腕を下ろした。
全身の皮膚がどす黒くなり、筋繊維が浮き上がっている。
水色の髪はそのままに、顔の皮膚も同様にどす黒く染まっており、目は怪しげな光を放っている。
屈託のない笑顔を振りまいてたエステルの面影は残っているが、人間と呼ぶ事に難色を示さざるを得ない姿をしている。
エステルは、イリスとの間合いを詰めた。
イリスは弓矢を捨て、短剣を抜いた。刃引きしてない。
エステルの右拳がイリスに襲い掛かる。
イリスは、短剣で応戦した。
短剣の刃に、エステルの拳が触れる。
イリスは短剣を力いっぱい引いた。しかし、エステルの拳には傷一つついてない。
エステルは拳と蹴りを繰り出している。
イリスは、それを大きく飛び退いてかわす。
「へー、イリスちゃんって、思ったより白兵いけるのね。それに、あたしが魔族だと知っても、驚いてないみたいだし」
「あんたが魔族ってのは、大分前から知ってたのよ。トウヤもね」
「その割に、トウヤは縮こまってるけどね。教育がなってないんじゃない?」
「人間様の家庭の事情に、口を挟まないでくれないかしら。化け物が」
口ではああ言った物の、イリスはエステルの攻撃を躱す事で手一杯のようだ。
トウヤは、イリスとエステルの様子を見ても尚、体を動かす事ができなかった。
異世界に来てから、精神的にも肉体的にも、生前に比べて見違えるほど成長していた。
しかし、友を亡くした経験だけは無かった。
訓練によって、戦いに対して前向きになり、緊張や恐怖で身が竦むことも、我を失う事も無くなっていた。
訓練と模擬戦での経験と実績によって得た、命を削る緊張下での思考の余地。
それが裏目に出た。
友人が殺された、という未体験の恐怖、喪失、傷心がトウヤの思考を黒く塗りつぶした。
さらに、その犯人であるエステルもまた、トウヤの友人である。
トウヤにとって、エステルがバルナバスを殺害した、という事実は幻滅、失望、喪失おおよそ人間の精神を削る、負の感情が噴出する事となった。
そして、それらはトウヤの精神と肉体を凍りつかせた。
イリスは壁際に追い込まれていた。
エステルは獲物を嬲るように、イリスに詰め寄っている。
「もう逃げ場は無いわよ。イリスちゃん」