「盗み聞きと覗き見は共犯だろ!?」
「これに懲りたら、もっと良い趣味を見つけるんだな。兄弟子からの忠告だ」
アクセルは言い終えると、緩やかな歩調で出入口に向かった。
トウヤは出入口に目を向ける。気にかけていたアクセルと同じ顔をした男の姿は、見当たらなかった。
「アクセル様」カスミが声をかけた。
「どうした? カスミ」アクセルは立ち止まった。
「扉の修繕費は、クロスフォード家に請求いたしますね」
「オーケー。将来の妻の頼みだからな」
アクセルは飄々とした口調で言うと、訓練場から出て行った。
カスミは嘆息をつくと、こめかみに手を当てた。
「シンドウさん、あいつ……アクセル、二人います?」
「彼の事が気になりますか?」
「弟弟子としてはね」
「うーん、そうですね……」
カスミは何か考え事をしているようだ。
程なくしてカスミの口が開いた。
「では、私から一本取ったら、アクセル様の事をお話します」
「ライラ先生がいないけど大丈夫ですか?」
「問題ありません。今の私が、オリベ様に遅れをとる事はあり得ませんので」
「わかりました。後悔しないでくださいよ」
トウヤが承諾すると同時に、カスミの全身から冷たい圧力が放たれた。
「何分、今日の私は少々、虫の居所が悪いので」
「何か怖いですよ。シンドウさん」
「当然です。盗み聞きに出歯亀根性、あまつさえ私の前で婦女子を侮辱するとは、日本男児にあるまじき行為。捨ておくわけにはいきません!」
カスミは槍を構えた。トウヤも反射的に剣を構える。
「オリベ様の腐った性根を叩きなおします! ですので、どうか絶命だけは、避けていただきますようお願いします」
カスミの射竦める視線がトウヤの緩んだ気持ちを引き締める。
「宜しいですね? イリス様」
「どうぞどうぞ。ついでに、トウヤの股にくっついてる膨張する器官も斬り落としていただいて結構です」
「おい! 盗み聞きと覗き見は共犯だろ!?」
「この期に及んで、イリス様に責任転換するとは! 男子として恥を知りなさい!」
カスミの怒気が孕む声が閑静な訓練場に響き渡る。
気圧されたトウヤは固唾を飲んだ。
平静を取り戻すため、目を閉じる。
――案外、これでよかったのかもな。カスミとアクセルとの間にある物が何なのかは知らないが、俺に関係のない都合で萎えて、手加減されるよりはマシだ。
トウヤは自分の無力さに苛まれていた。
イリスと随伴して尚、アクセルに反撃が出来なかった事。
些細な事で気が緩み、カスミの叱咤が無ければ覚悟を決める事もできない脆弱な精神に。
改めて剣を構える。意を決して、目を見開いた。
「良い目をしておられますね」先ほどとは打って変わって、カスミの口調は穏やかだった。
「気構えだけでもね」
「では、参ります」
カスミの槍とトウヤの剣が激しくぶつかった。
「俺が死んだの、これで何回目だ?」
「まだ1回目よ。そうでなきゃ、私とお話できないでしょ?」
「そっか」
昨日同様、イリスはトウヤの手当てをしていた。
今日、おろしたばかりの制服は、昨日よりも酷い有様になっていた。
その様相が、修行の過酷さを物語っている。
「本日のオリベ様は、昨日よりも修行に身が入っておられますね」
「今日一日だけでも散々な目にあったんでね」
「ふふ、これは鍛え甲斐がありそうですね」
カスミは微笑を浮かべている。どうやらトウヤが修行に打ち込む様子を大層気に入ったようだ。
「では、本日のオリベ様の修業はここまでにしましょう。次はイリス様、準備はよろしいですか?」
「え”!? 今日は、筋肉痛だからパスしたいんだけど」
「そうですか、では弓と矢を持ってきてください」
カスミは、イリスの提案に耳を貸そうとしない。イリスは、げんなりした様子で歩き出した。
カスミとイリスのやり取りを見たトウヤは、居てもたってもいられずに口を開いた。
「シンドウさん。今日はイリスを休ませてあげたいんだけど」
「理由を聞かせていただけますか?」
「筋肉痛の時に無理をすると、体を壊す事になるからさ。終戦直後は知らないけど70年経った日本では、筋肉痛になったら2,3日は休ませるのが常識なんだ。筋肉の成長のためにね」
「オリベ様の言い分には、頷けます」
「すんなりと受け入れるんですね」
「あくまで筋力増強のため、ならばオリベ様が正しいのでしょう」
「どういう意味ですか?」
「オリベ様は私の質問に、真摯に答えてくださいました。それなら私も、イリス様に修業をつける理由をきちんとお話しします」
カスミは、真剣な眼差しでトウヤを見つめている。
表情は柔らかい。雰囲気も和やかだ。だけど黒い眼からは、かすかに確かな意志を感じる。
トウヤは口を挟むのを止めた。カスミの様子を見て、場当たり的な発言をするとは思えなかったからだ。
「本日のイリス様の修業は、勝負の場において、抵抗の意思を示すための修業だからです」
「抵抗の意思? 根性とか精神論とかの類ですか?」
「いえ、そのような不確定な物ではありません。いいですか? 戦いを左右する要素は、いくつかあります。その内の一つに戦意、文字通り戦う意思のためです。戦に例えるなら士気にあたります」
――戦う意思、それは戦うためのモチベーションという事だろうか。
トウヤは疑問を投げかけようとしたが、カスミの話が途切れる気配が無かったので、黙って耳を傾ける事にした。
「試合、死闘問わず、最後の最後まで注意を払う重要な事です。窮鼠、猫を噛む、という言葉はご存じですか?」
「たしか、追い詰められた弱者が強者に反撃する意味のことわざですよね」
「その通りです。よく勉強されてますね」
「たまたまです」
「では話を戻します。圧倒的優位な立場でありながら、手痛い反撃を受ける要因。それは相手の戦意を考慮してないためです。例え、技量では叶わずとも、満身創痍であることを気取られずに反撃の意思を示す。特に命をかけた勝負では、戦意を失わない事が肝要です」
「えっと、つまり嘘をつけって事ですか?」
トウヤの子供じみた解答に、カスミは溜め息をついた。
続けて「身も蓋もありませんがその通りです」と呆れ気味に言った。
「ですので、イリス様には痛みを堪えつつも、それを表に出さないための訓練を積んでいただきます。特に実戦は、最後まで五体満足で戦い抜くのは不可能と言っても良いでしょう。負傷する事もあれば、体を酷使して思うように動かせない状況に陥る事は多々ありますので」
まるで見てきたかのような口振りだった。
平静に淡々と語る様子は、論争に打ち勝つため、説得力を持たせるためだけの文面ではなく、カスミが歩んできた人生の体験談に思えた。
それは勉学を毛嫌いするトウヤの骨身に染みた。頭で理解するのではなく、心と体に刻み込む。
カスミ以外の人間が口にしたのなら、返す言葉があったかもしれない。
しかし、刃を交えた事があるカスミの言葉に反論するには、今のトウヤには何もかもが足りなかった。
「たとえ劣勢であっても抵抗の意思を明確に示せば、敵の足が止まる事もあります。そうなれば、しめたものです。刹那の間でも足止めができれば、逃げる事も叶います。さらに相手が未熟者であれば、冷静な判断力を奪う事も出来ます。場合によっては、劣勢を覆す一手に成り得るでしょう」
「留めておきます。劣勢でも決して戦意を失くさない事、そして優勢になっても気を緩めない事を」
「お願いします。私共は親が居れば、傷はすぐに治ります。しかし、不死身ではありません。ですので、命は大事にしてください。70年ぶりに会えた同郷の者が、試合や戦で亡くなるのは心苦しいので」
「わかりました。でも、イリスには、あまり無理はさせないでくださいよ。俺と違って丈夫じゃないんで」
「承知しております。では――」
カスミはイリスの方に向き直った。
イリスは弓と矢を手にしているが、足取りが重いようだ。
「イリス様、休息は十分であるとお見受けしますが」
「人聞き悪いなあ。まるで私がノロノロ歩いてサボってたみたいじゃん」
「自覚はあるみたいですね」
「ほら……二人の話の邪魔をしたら悪いかなって」
「お気遣い感謝いたします。ではお礼に、今日の修業は予定よりも厳しくしますね」
イリスは気怠さを顔全体で表現した後、重い口調で「ええ~」と言った。カスミの言葉に意気消沈のようだ。
――あの様子だと戦意を維持するのは、まだまだ先のようだな。
駄々をこねて抵抗するイリス。それを意に介さず、カスミはイリスを引きずって訓練場の奥に消えていった。