「人を裸呼ばわりするのは、無作法じゃないのかよ」
気になるので視線の元を辿る事にした。トウヤは後ろに目を向けた。
そこには、分厚い本を広げた小柄な少女が佇んでいた。短く切られた髪は茶色がかっている。幼い顔立ちではあるが、目つきはどことなく憂いを帯びているように見える。
良く言えば、物静かで一人で本を読む姿が容易に想像できる。悪く言えば、辛気臭い。他人との間に分厚い壁を設けてそうな印象を抱く。
トウヤは少女の顔に見覚えがあった。それは先日の模擬戦で蜘蛛や蜂を呼び出してた少女だったからだ。
茶色の髪の女性は、トウヤの視線に気づいたのか、分厚い本を立てて顔を隠した。本の表紙には、虫図鑑と書いてあった。
「トウヤ、どうしたの? 後ろなんか見て」
「ちょっと視線がな」
「ジーナ、あんたも見たいの? 私のグリモア」
ジーナと呼ばれた少女は虫図鑑を机に倒すと、小さく「うん」と頷いた。
「俺はトウヤ=オリベ。よろしくジーナ」
「ジーナ=ランディ。こちらこそ、裸の男」
「裸は忘れてくれ」
僅かな羞恥心を覚えつつ、過ぎた事を気にしてもしょうがないと思い、次の視線の主に目を向けた。
そこには、腰まで伸ばした鮮やかな金色のウェーブがかった髪と微かに気品を醸す整った顔立ちの女性が立っていた。
青い目はサファイアを彷彿させるほど澄んでおり、晴れ晴れしい表情は太陽のようだ。体形はイリスとは対称的に女性らしく丸みを帯びていて、スラリと伸びた脚が立ち姿を美しく彩っている。
金色の髪の女性にも見覚えがあった。それは先日の模擬戦で土人形を操ってた女性だったからだ。金色の髪の女性は、トウヤの視線に気づいたのか笑顔を装った。
「わ、私の事はお気になさらずに」
「私もさっきから、あなたの視線が気になってたのよ、マリー」
「不思議な板をどうやって扱うのか、後学のための参考に、と」
「それなら、遠慮しないで近くで見ればいいじゃん」
マリーと呼ばれた女性は、トウヤの席の近くまで歩いた。間近で見るマリーの立ち姿に、トウヤの心臓の鼓動が加速する。好感を得るため、席を譲りたくなるほど綺麗な出で立ちだった。令嬢とは、こういう人の事を言うのだろうと思った。
「こちら失礼しますわ」
「どうぞ、どうぞ」
「私としたことが名乗るのを忘れてましたわ。私の名は、マリエル=フォン=バシュラールと申します」
マリエルは、流麗に会釈した。
「これはご丁寧にどうも。俺はトウヤ=オリベです。バシュラールという事は、五大貴族の?」
「あら、ご存じでしたの? 随分と耳聡いのですね。おっしゃる通り、私はバシュラール家の公女です」
――マリエルといい、ロザリーといい、この世界の貴族は気さくな人が多いみたいだ。嫌味な奴と思ってたバルナバスですら、平民に頭を下げるくらいだ。日頃からなのか学校の規則がそうさせてるのかまでは不明だけど。
しかし、今はそれより、一つ引っかかっている事があった。
「マリエル? マリーじゃなくて?」
「私と親しい方は、愛称のマリーで呼んでますわ」
「俺もマリーって呼んでいい?」
「異世界では、親しくない者にでも愛称で呼ぶのが作法なのですか? 裸の方」
「人を裸呼ばわりするのは、無作法じゃないのかよ」
――さすがに調子に乗りすぎたか。旅の恥はかき捨ての精神だったけど、そろそろ気を引き締めた方が良さそうだ。
「トウヤ、観客も増えた事だし、そろそろ再開してもいい?」
「悪い悪い、それじゃ次はクラックを試すか」
――オーバークロックにコンパイルがあるならクラックは、普通に考えてPC用語と見ていいだろう。システムの不正利用、破壊、改ざん等、主に悪いハッキングの意味を持つ言葉だが、こんなファンタジーな世界で何をハッキングすると言うのだろうか。
イリスがクラックのアイコンをタップする。するとタブレットの下部、実機なら充電ケーブルを差し込み口がある場所からケーブルが生えてきた。ケーブルの先端には、端子が付いている。
「トウヤ、画面には、端子をホムンクルスの頭部に差し込んでくださいって書いてあるけど、どういうこと?」
「タブレットの下から植物のつるみたいなのが出てきただろ? 端子ってのは、そのつるの先端にある角ばってる奴だ」
「ふーん、これね」
イリスは端子の根本を人差し指と親指で摘まんだ。まじまじと端子を眺めている。
――それよりも、端子を頭部に差し込んでくださいって、どういう事だ?
トウヤが文面の解釈に頭を悩ませてると、イリスが急に机に乗り出した。すると、前の席に座ってる生徒の後頭部にケーブルの端子を突き出した。
「痛っ! イリス君! 今度は一体、何の真似だ!」
イリスの行為に怒ったのか、生徒が振り返った。それは、顔を引きつっているバルナバスのご尊顔だった。
――急に事を起こすから、たちが悪いなイリスは。
「何か悪いな。バルナバス」
「君が気に病むことは無い。彼女の奇行は、今に始まった事じゃないからな」
「うーん、普通の人間相手だと意味無いようね」
イリスは端子をマジマジと眺めながら言った。バルナバスの事は気にも留めてない様子だ。
――イリスの奇行については今朝、嫌ってほど味わった。それこそ悪夢に出てきたくらいだ。でも、その奇行のおかげで知り得た情報もある。少なくともイリスに明確な悪意は無いだろう。ただ悪意が無ければ許される歳じゃない事は、自覚してほしいものだ。
「ところでイリス君。その紐で何を企んでいるのだね?」
「グリモアの試行錯誤してるのよ」
「先刻、アルベルティナ先生が君のグリモアを奇書か偽書と申してたが……ふむ」
バルナバスは、タブレットの画面に視線を向けている。文面を解釈し終えたのか、イリスに向き直った。
「僕は、ホムンクルスじゃないぞ!」
「だからこそ、試しておきたかったのよ。人間には有効なのかどうか」
「識字能力が失くしたのかと思ったよ」
「おあいにく様、まだまだ座学首位の座を明け渡すつもりは無いわよ」
トウヤが二人の諍いを眺めてると、急に額にチクっと細い針が刺さった時の痛みを感じた。眼前にはイリスの右腕とケーブルが見えた。恐る恐る、視線を上に移動させた。イリスの手首がある。額には指が当たっているのだろう、人肌の暖かみを感じる。
痛みは消えていた。代わりに脳みそ全体を覆うように微弱の刺激を感じる。まるで大量の、足の多い虫が這いずってるような、薄気味の悪い感覚だ。
「トウヤ君、大丈夫かい? 頭に、その、奇妙な物が刺さってるが」
「チクっとした。でも今は大丈夫だ。まったくホムンクルスさまさまだ」
トウヤは、バルナバスへの返答を終えるとイリスの方に顔を向けた。