プロローグ:ある夜の二人 全容・前編
イリスの後ろにある窓から、月明りが差し込む。憂いを帯びた表情と逆光の月明りが相まって、神秘的な雰囲気を醸し出している。大人びてるように見えた。少女の面影が消えたせいか、まるで別人のようだ。
雰囲気に呑まれたトウヤは、正面で佇むイリスに目を奪われた。
「トウヤ……今から言う、あたしの質問には、真剣に答えてほしいの」
言葉で肯定したかった。だけど、安易な気持ちで言葉を口にする事ができなかった。辛うじて、頷くことでイリスの言葉を肯定した。
「あなたは、この世界で生きてみたいと思った?」
その声は、微かな抑揚と共にイリスの口から紡がれた。今までの溌剌とした声色とは真逆の印象を受ける。
「質問の意図が理解できない、どういう意味だ?」
「言葉通りよ。もし、この世界で生きたいと思ったなら、テーブルの上にある液体を飲み干して」
「飲まなかったどうなる?」
「2,3日後に死ぬ」
死、それはつい先ほども意識したばかりの言葉だった。
イリスは続けて口を開いた。
「厳密に言えば、肉体から魂が抜けるの。そして魂は、死者の世界に戻る。残った肉体は、土や風になるの」
「今まで飲まなかった奴はいるのか?」
「文献には、約半数のホムンクルスが口にしなかったみたい。つまり、この世界で生きる事を拒否してるの」
「差し支えがなければ、理由を教えてくれないか?」
「そうね。この国がホムンクルス、人間の魔導生物を造る理由から説明するわ。端的に言えば、異世界の知恵と技術が欲しいの。だけど知識人や武芸に身を費やした人の大半は、生涯を懸命に生きた人なの。だから、別世界で第二の人生を歩みたい、と考える人が少ないの」
――この世界の住人が、俺の事をホムンクルスと呼ぶ理由が、おぼろげに見えてきた。
ホムンクルスは、生まれながらにしてあらゆる知識を身に付けていると言われてる。
この世界の人達は昔から、知恵と技術を擁する別世界の人間を呼び出していて、その中の誰かが自分の境遇をホムンクルスと重ねた。
そこからホムンクルスという名前が広まった、と推測できる。
極めつけは、左胸のフラスコの模様だ。ホムンクルスは、フラスコの中でしか生きられないからな。
「ちなみに、第二の人生を放棄する理由も色々とあるわ。晩節を汚したくないから、生涯を共にした伴侶がいないから、別世界の存在に自分の人生が拒絶されたように思えたから、生涯をかけて道を極めたが故に気力を失くした、とかね」
――なるほど。充実した人生を送ってきたなら、生きる事に未練が無くなるのも当然か。
齢17年で一度目の生涯を終えたトウヤには、耳が痛い話だ。
先の戦いで垣間見た走馬灯を思い出す。果たして自分は、未練を残さない生き方をしてただろうか。
透明の容器を眺める。微かに橙がかった透明感のある液体が揺れているように見えた。
「迷ってるのね」
そう言ったイリスの目は、黒くくすんでいた。まるで絶望の淵を覗き見ているかのように思えた。
「トウヤにとって、生きるも死ぬも同じなのね。だから迷ってる」
「そんなつもりはない」とトウヤは虚勢を張った。
「生か死か、今のトウヤはどちらを選んでも後悔するわ……でも後悔するなら尚の事、自分で選ぶべきよ」
――イリスは、俺に生きていて欲しいか?
喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
トウヤ自身も困惑していた。今、その言葉を口にしたら、イリスを傷つけてしまうと思ったからだ。
――これは俺自身の生き方と、死に方の問題だ! 俺が決めないでどうする!
トウヤは顔を上げた。イリスの目をじっと見据える。光を失った深紅の瞳が痛ましい。
どんな生き方をしたら、あんな目になるのだろうか。
そう思った時、トウヤはテーブルの上にある透明な容器を手に取った。手触りからしてガラスのようだ。ガラスの容器を口元に寄せると、一気に中身を飲み干した。味は、スポーツドリンクのように甘く、ほんのりと塩気を感じた。
気が付くとイリスの表情は、初めて会った時のように可愛らしい少女の顔に戻っていた。愛らしい円らな瞳に光が灯っている。
「ねえ、何で生きたいと思ったの? 理由、聞いていいかな?」
イリスは悪戯っ子のよう笑みを浮かべている
しかし、今のトウヤの頭には、瞳から光を失ったイリスの顔が浮かんでいた。
――放っておけなかった。
答えは口に出さなかった。大した理由では無いからだ。当然、それが自分の我儘であることは重々承知していた。
だからこそ「秘密だ」と、トウヤは答えた。
答えを聞いたイリスは不満げに口を尖らせたが、詮索はしなかった。