11-8.接近/篠崎 寧々
私と柴田さんは、ワルシャワに着くと思いつく限りの目ぼしい場所を潰して回った。
とは言っても、思いつくのは柴田さんが取ったスタジオとアパート、1次審査以降の参加者にコンクール事務局から無償で提供されるというホテルくらいのもので、その3軒を端から回ったが、勇吾くんは、そのどこにもいなかった。
それから次の日も、私たちはそうした場所を周りながら、周囲に聴き込みをしたりして回った。
でも、そこで得られた情報は、2次審査までの間、勇吾くんはほとんどの時間をスタジオで過ごしたこと、1次審査で同じブロックだった出演者がしょっちゅう遊びに来たこと、お風呂に入るためだけにアパートに帰ったこと、事務局の用意したホテルには、チェックイン以降一度も現れていないこと、これくらいだった。
勇吾くんはワルシャワからは出ていないというのが柴田さんの見立てだった。
今、彼を連れているのは事務所の社長だ。
呉島 勇吾という人を長距離移動させるのは、途方もない労力を必要とすることで、60歳近い社長にその体力はないだろうという話だった。
「くっそムカつくぜ。人の苦労を何だと思ってんだよ」
柴田さんは、スタジオやアパートの確保に年単位の交渉と調整を要したのだそうで、勇吾くんがそこをそのまま放棄してどこかへ足取りを眩ませたことに怒っていて、ついに昨晩、近くのスーパーでビールを1ケース買ってホテルへ帰った。
心配する私を他所に、柴田さんは化粧を落としては1本、シャワーを浴びては1本と、一挙動ごとに『痛飲』とはかくあるべしという飲みっぷりでそれを全て空けると、ベッドに大の字になって眠った。
彼女によると、それは儀式なのだそうだった。
世の中にはやり切れないことが沢山起きるから、そのやり切れなさを吐き出すことが、明日を生きるためには必要なのだという。
確かに、そうかもしれない、と私は思った。
思いはしたが、この昼前まで二日酔いで起き上がれないというのでは、それ見たことかという以外に、何を言えばいいのだろう。
ホテルの7階。ヨーロッパでは日本で言う1階をカウントしないので、私の感覚では8階にあたる。
その一部屋に、私と柴田さんは泊まっていた。明るい色調の2人部屋で、大きな窓からワルシャワの街がよく見える。
「いやぁ、しばらく運転しないと思ったらタガが外れたよね」
いつの間に脱いだのか、下着姿でシーツに包まり、悩ましく唸りながら言う柴田さんの声は、女の私もドキっとするほどセクシーだったが、内容は全然セクシーじゃない。
呆れて窓の外を見下ろす。高層ビルに囲まれて、花壇の植わったロータリーの手前に黄色の路面電車が停まった。
そこから降りてくる乗客を、見るともなく見下ろしていると、不意にその中の一人が目についた。
チェスターコートを着た男の子。遠くてはっきりとはしないが、背格好や髪型が、勇吾くんに似ているように思う。
「ねえ、柴田さん! あれ!」と声をあげる。
柴田さんはガバッと起き上がって、窓に貼りつく。
小柄な老婦人と一緒に降りてきて、一言二言言葉を交わしたように見えたが、やがて分かれて地下道の階段へ吸い込まれていった。
「あれ……そうじゃないです?」私は慌てて服を着替えながら言ったが、柴田さんは考え込むようにうなるだけだった。
「あいつ、あんなコート持ってないと思うけどね」
「買ったかもしれないじゃないですか!」
「まあ、そうなんだけど、服はアタシが買ってたからな。自分で服を買うって発想があいつにあったかどうか……」
「でも、勇吾くんお祭りの時は浴衣を着てました。服くらい自分で買えますよ」
「お? 何だ? デートの自慢か?」
「もう! 私、追っかけます!」
そう言って部屋を飛び出した。
「おい! お前、勝手に……!」
柴田さんの声を置き去りにして、部屋のドアを閉めた。
廊下を抜けて、エレベーターのボタンを押す。この時間がもどかしい。
階下に降りると、エントランスを通って、外へ出た。
交差点の角で周囲を見渡す。
北に進んで右に曲がればホールがある。
今は3次選考初日の前半が始まって、少し経ったくらいのタイミングだけど、勇吾くんが他の参加者の演奏に関心を持つとはあまり思えなかった。
窓から見た男の子が勇吾くんだとすれば、彼は南から北へ向かうトラムを降りた。
彼に明確な目的地があるのならお手上げだが、そうでないとしたら、例えばあてもなく、ふらっと出て来てしまったのだとしたら、トラムの逆へ引き返すだろうか……?
地下への階段を駆け下りてロータリーを渡る。
再び地上へ出ると、左手には『文化科学宮殿』という、そのモノスゴイ名前に似つかわしい巨大な建物がある。私は宮殿の前の歩道を北へ向かって駆け抜けた。そのブロックの北側には公園があった。
学校でお友だちが出来てからはマシになったというが、彼はピアノに触れていないとすごく不安定になったそうだし、そういう癖がぶり返して、公園のベンチで一休みしていたりはしないだろうか。
公園に入ったが、それらしい人影はない。犬を散歩している人や、ベンチに座って昼前だというのにお酒の瓶をあおっている人もいる。
でも勇吾くんはいなかった。
耳を澄ましてみる。
車やトラムが走る音、クラクションが鳴って、何か怒鳴り声が聴こえたりもするが、手がかりになりそうなものはない。
「くじけそう……」と一人呟いた。
ワルシャワの人口は180万人くらい、そこにこの時期、ショパン・コンクールに合わせた旅行者が増えて……もう分からないけどたくさんいる。
その中から1人を探し出すなんて……。
「Cienki?」
突然声をかけられて、うつむいていた私が顔を上げると、中年の女の人が私を見つめていた。何かたずねられた気がするが、言葉は通じないし、表情がなくて何を聞かれたのか分からない。
「あ……あいむ、ふぁいんでぃんぐ、ゆーご・くれしま……」
震える声で、辛うじてそう言った。
おばさんは目を丸くした。
「Yugo? Pianista!」
「そう! ピアニストの! ゆーご! あいむ……えっと、ガールフレンド! という関係性でして……」
「Girlfriend?」
多分、英語で言ってくれたのだと思って、私は強くうなずいた。
すると、おばさんは少し興奮した調子で、何かまくし立てたが、私が頭に疑問符を浮かべているのに気付くと、多分旦那さんだろう、少し離れたところで犬と戯れていた同じくらいの年頃の男の人を読んで、何かを言った。
すると男の人は、公園の外を走る道路を西から東に指して、「ワン、ツー……」と通りの角を数えて、「スリー」のところで指をクイっと北側へやった。
3つ目の角を、北側へ曲がったという意味だ。
「さんきゅー! さんきゅー、べりーまっち!」
私はほとんど叫ぶようにそう言って、駆け出した。
やっぱり、私が見たのは勇吾くんだった。
勇吾くんは、ワルシャワでは有名になっていて、顔を覚えられているのだ。
この調子なら、見つけられる。
この国の人はみんな笑わないし、一見無愛想だけど実はとても親切だと勇吾くんは言っていた。
本当だ。彼に会って、そのことについて話したかった。他にも、話したいことはたくさんある。
会いたい。その思いが、太ももの筋肉を躍動させる。
アスファルトを強く蹴って、前へ、前へ……!
教えてもらった角を北へ曲がり、その先を見通す。
ホテルや商業ビルが並んで、路面には喫茶店や雑貨屋さんがいくつもある。
この先は、情報がない。
足が止まった。当てずっぽうに動き回れば、かえって勇吾くんから遠ざかってしまうのではないか。
何か、手がかりは……と考えた時、ふと頭に疑問が湧いた。
元の通りへ引き返し、公園を見る。
あのご夫婦は、どうして勇吾くんがこの角を曲がったと知っているのだろうか。
この辺は高層ビルが並び、一つの区画が大きい。彼をこの辺で発見して、「あ、呉島 勇吾だ!」と識別するのは、マサイ族でもない限り難しいように思う。公園からはそれくらいの距離がある。
彼が普通に歩いていたとしたら、彼を公園付近で識別した後、この角を曲がるまで眺めているのは、何か不自然じゃないだろうか。旦那さんが連れていた犬も退屈してしまう。
彼は、走っていたのではないか。血相を変えて走る東洋人の男の子というのは、この街でもそれなりに目立ちそうだ。
じゃあ、なぜ?
きっと、ピアノだ。彼が慌てて走り出すほどのことといえば、ピアノ以外に思いつかない。
私は路面に並ぶお店に、ピアノはないかと覗きながら、通りを歩いた。
その中に1件、木製のドアに小さなガラス窓のついたカフェがあって、その奥にピアノが見えた。
恐る恐る、ドアを開ける。
「じぇん・どぶりぃ……」
ピアノには奏者が座っていなかった。
お客さんが、こちらを見ると少し愉快そうに笑った。
店員さんが何かを言ったが、言葉がちっとも分からないので、さっきと同じように、うる覚えの英語で「あいむ、ふぁいんでぃんぐ、ゆーご。あいむ……えと、ガールフレンド、おぶ? ゆーご」と搾り出した。
すると、そこにいたお客さんが途端に総立ちになって、私を取り囲み、口々に何かを言った。中には「ユーゴ・クレシマ」や、なぜか「ルドヴィカ・ゲレメク」の名前が含まれていたが、他は全く聞き取れなかった。
みんな、表情がない。怒っているふうでもないけど、笑ってはいない。
どういう気持ち? どういう気持ち? と混乱してしまって、言葉が出てこない。怖い。
「おい!」
唐突に扉が開いて、怒鳴り込んで来たのは柴田さんだった。
「てめぇ、勝手に……」
「柴田さん! この人たち、何か知ってる!」
私が声をあげると、柴田さんは目の色を変えた。英語で周りの人たちから話を聞き、それから私の方を向いた。
「すげえなアンタ。どういう嗅覚だよ」
「愛の力で……」
「うるせえわ。でも、でかした」
私は内側から漲るものを抑えながら、通りを睨んだ。
私は必ず、勇吾くんを救い出す。