11-7.────────/呉島 勇吾
今は10月も半ばだという。外の空気は乾燥して、きりっと冷たかった。
黄色く色付いた木々が、風に乾いた音を鳴らして、寒さを余計に際立たせるようだった。
時計を持っていないのでよく分からないが、空気と腹の減り具合からして昼前くらいだろう。
屋敷の中を物色して、千鳥格子のチェスターコートを羽織ってきたのは正解だった。
コートはあの怪しげな男のものかもしれなかったが、あまり遠慮しようという気も起こらなかったし、生憎なのか幸いなのか、腕が疲れて地下室を出た時、男は見当たらなくて、それを確認する術を持たなかった。
俺の名前は、『クレシマ・ユーゴ』というらしい。日本人だという。
風呂場の鏡で見た感じから言うと、10代の半ばくらいだろうか。大人と子どものちょうど中間くらいだった。
『フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール』というのがあって、その2次選考を通過していた。大層デカいコンクールだそうで、ショパンの故郷ワルシャワで5年に1度行われる。
つまり俺は今、ワルシャワにいるということになりそうだが、だとしても俺がいた屋敷があるのはずいぶん郊外らしかった。
森に囲まれて、敷地は広く、ひとまず大きな通りに出るまでに辺りをぐるぐる歩き回らなければならなかった。
俺にとって幸いだったのは、地下室に財布があったことで、札入れには日本円とポーランドのものと見える紙幣、それからクレジットカードが入っていた。
名前が入っていたので俺のもので間違いないが、カードの暗証番号が思い出せない。
紙幣を観察すると、「NARODWY BANK POLSKI」と書かれていて安心した。
単位はズウォティ。ざっと見て1,000ズウォティは持っている。相場は分からないが、小遣い程度の額は持っているだろうと当たりをつけた。
大きな通りに出て、標識を頼りに歩き出す。
地下室にこもっていると時間の感覚が曖昧で、どれくらいの間そうしていたのかはっきりとはしないが、俺は繰り返し『ペトルーシュカ』を弾いていた。あの地下室で目を覚ましてからというもの、なんだか気に入っているのだ。
しかし、おが屑の詰まった架空の藁人形にどれだけ同情や共感を寄せたところで、俺自身の空虚さは埋まらなかった。
多分、俺自身が、俺自身の足で、そこにあるべきだったものを見つけ出さなければならない。
少女のバレリーナ人形。多分俺は、顔も思い出せない彼女を探している。
俺がいた屋敷は周囲を森に囲まれていたが、大きな車道を隔てた向こう側は、整備された住宅街だった。
少し歩くと、路面電車の停留所があって、そこに並んでいる人にたずねると、綺麗な白髪の、上品な感じのする年老いた女が、ワルシャワ中心街への行き方を教えてくれた。
幸いこのトラム一本で、ワルシャワ中央駅まで行けるらしい。
ワルシャワの乗車券というのは、ほぼ区間距離ではなく時間で決まっているらしかった。
“ほぼ”というのは、ワルシャワ中心部のみを指す『ゾーン1』と、郊外を含む『ゾーン2』という区分があって、そのエリアを跨ぐか否かで料金が変わる。
エリアの区分はその2つだけで、あとは20分、75分、24時間フリーのチケットに分かれ、それ1枚でトラムにも地下鉄にもバスにも乗れる。
ワルシャワ中央駅まで行くには20分だとギリギリ間に合わないということなので、75分のチケットを買おうとしたが、親切な婦人の言うことには、特に目的がないのなら1つ前の駅で降りた方が安上がりだと強く勧められて、『ゾーン1、2共通20分』という赤い色のチケットを3.4ズウォティで買った。
玉子の黄身みたいな色の電車が鈍い音をたてながら乗り付けて、2人がけの窓側の席に乗り込むと、婦人は俺の隣にかけた。
電車は臆病なドライバーの運転する軽自動車くらいのスピードで、婦人の言うところによると南から北へ向かって街を貫いて行った。
右手に見えていた森が程なくして切れると、コンクリートか石造か、灰色の集合住宅が並んだ区画を抜けて、もう少し進んだ辺りで商業施設が見え出したと思った時、「次の駅で降りましょう」と婦人は言った。
確かに、電車を降りたのは乗車時間20分をぎりぎり切るというようなタイミングだった。
道路の北に円形のロータリーがあって、その先に進めば10分くらいで『ワルシャワ・フィルハーモニーホール』に着く、と婦人は教えた。
「どうして、俺がホールに行くと?」
そうたずねると、婦人は「ホールだったら目印になるじゃない。あなた、『ユーゴ・クレシマ』でしょ?」と当たり前のように言った。
「そうか、俺はコンクールに出ていた……」
すでに少し、有名になってしまっているのかもしれない。
婦人はその時になって初めて、珍しげに俺の顔を覗き込んだ。
「あなた、不思議な人ね。まるで妖精の国から迷い込んだみたい」
「じゃあ、俺が国に帰ったら、親切なご婦人の話をするよ。アンタに幸せが訪れますように」
婦人はシワの深い顔を穏やかに綻ばせて笑った。
「私はルドヴィカを応援していたけど、あなたのことも応援するわ。悪魔のフリをした妖精さん」
俺はそれをどう受け止めるべきか分からなかったが、「ありがとう。がんばるよ」そう告げて、婦人に背を向けた。
✳︎
南北に伸びる『マルシャウコフスカ通り』と、東西を走る『イエロゾムスキー通り』の交点(というのも例の婦人から聞いた)にあたるロータリーの手前、南西の角には大きなホテルがあった。
俺は特に理由もなく、その8階辺りを見上げた。
ロータリーの周辺は、ホテルの他には大型商業施設やオフィスビルのような高層建築が並び、大きな看板や何かがデカデカと掲げられて、賑やかではあったが情緒はなかった。
思いつくままふらりと街へ出てきてしまったが、何のあてもない。
浅い呼吸を繰り返しながら、俺はとりあえずどこか腰を落ち着けられるところを探した。
出来れば、ピアノのある場所がいい。勝手にピアノが弾けるようなところ。
ピアニストというのは自分の楽器を持ち歩くことが出来ない。
俺がヴァイオリニストだったら、好きな人の耳に届くまで、そこら辺で弾きまくるのにな、と、自分の得意な楽器がピアノであることを恨めしく思った。
地下道からロータリーを北へ渡ると左手に、大学だろうか、敷地から何からとにかくどデカいのがあって、その北側が公園になっていた。
犬を遊ばせている中年の夫婦や、昼間っから酒をあおっているオヤジ、賑やかというほどでもないが、閑散ともしていない。
俺はそこに入ると、ベンチに腰を下ろして目を閉じた。
すると、車の排気音やトラムが軌道を走る音、何かの宣伝文句に混じって、かすかに、ピアノの音が聴こえる。
俺は飛び上がるようにその方向へ駆け出した。
『舟歌』だ。しかも、これは並の弾き手ではない。
雑踏の喧騒を耳から追い出して、その『舟歌』の、反復音形のかすかな揺らぎや、重音トリルの一つ一つに聴覚を集中する。
どれだけ走っただろう。途中、車に轢かれそうになったり、人にぶつかって怒鳴られるのにも構わず通りを駆け抜けて、最後の和音が2つ、「生ききった!」とでもいうようにガンと鳴る時、俺は扉を押し開いた。
そこは、喫茶店のようだった。
変わったところがあるとすれば、小さなグランドピアノが一つ、フロアの隅の方に置かれていて、そこに長い縮れ髪の小柄な女が、跳ね上げた手の指に、今弾き切った舟歌の最後の和音の形を残していることだ。
店内いっぱいの客が、拍手をする予定だった手をそのままの形で凍りつくように止めて、俺の方を向いた。
「ご……ごめん……」と俺は謝った。彼らが味わうべき余韻を奪ってしまった。
客の1人が俺を見て「ユーゴ」と言った。
そこから起きたどよめきを他所に、俺は客席の間を抜けて、ピアノの前の女に声をかけた。
「あんた、すごいな。名前は?」
「ルドヴィカ」と、女は答えた。
「ショパンの姉と同じ名前だ」
「そうよ。生まれ変わったの」と女は言う。
俺は妙に納得した。
「あんたは生きてるショパンを知ってるから、そんなふうに弾けるのか」
すると、女は目を丸くして、俺を見つめた。
それから、ベンチ椅子の端の方へ尻をずらして、ここへ座れというような仕草をする。俺がそこへ恐る恐る尻を下ろそうとした時、女は鍵盤を撫でるように押した。
フレデリック・ショパン『4手のための変奏曲』
ショパンが残した唯一のピアノ連弾のための作品だ。悲しげな分散和音をルドヴィカが低音から上昇させていき、それを半ばから俺が引き継ぐ。
2人の奏者の間を行き来する序奏が終わると、簡潔で明るい主題が現れ、次々に変奏されていく。
ルドヴィカの音には確信があって、言葉など交わさなくとも、どう引き継いでどう合わせればいいのかが明確だった。
彼女の音には温もりがあった。悲しい響きや旋律にも、穏やかな優しい温もりが根底に流れていた。
1つのベンチ椅子に肩を触れ合わせて座り、俺たちは1つの音楽を2人で紡いだ。
最後の和音を2人で鳴らし、顔を見合わせて鍵盤から指を離した時、2人の間には確かに、言葉では表現できない何かが通じ合っていた。
俺は天井を見上げて、そこに残る残響に耳を傾けた。
誰かが口笛を吹いた。
それを呼び声に拍手と歓声がワッと上がって、俺たちは祝福されるように、喝采の中を2人、揃って礼をした。
俺は、なんだか途端に恥ずかしくなった。
客が馴れ馴れしく俺の肩や背中に触れるのを払いもせず、しかし返事もせずに、俺は店を出た。
その後ろから、慌てて追いかけてきたのか、店の中を少し走っただけだろうに、肩で息をしながらルドヴィカが俺を呼び止めた。
「ねえ、ユーゴ、お昼ご飯、食べた?」