11-6.理由/篠崎 寧々
「アタシが言うのもなんだが、よく許可が下りたな」
空港へ向かう車のハンドルを握りながら、柴田さんは言った。
「はい。奇跡だと思います」
後部座席からそう答える。
「ねえよ。この世に奇跡なんか。全てのことには理由がある。
まずアタシのトークが冴えてた。それから、あんたが両親に信頼されてて、親御さんには理解があった。それでもまだ足りねえと思ってたが」
「私の家族が、勇吾くんのことを好きだったから」
「私にはそっちの方がよほど奇跡的に聞こえるけどね。まあ、それにもきっと理由があるんだろう」
私は、何だか納得してしまった。この人はきっと、いつも理由を探している。
それさえあれば、すごい力を発揮できるから。
勇吾くんが一晩で何百万っていうお金を稼ぐのも、この人がそういうお客さんを見つけて来るからだ。そうするなりの理由が、彼女の中にあるのだ。
だけど、その理由を失った時、この人はひどく動揺したり、立ち止まったりしてしまうのかもしれない。それが分かっているから、彼女は必死に勇吾くんを取り戻そうとしているのではないか。
「ニュースはどうだ?」と聞かれて、私はスマホのブラウザを開いた。
「勇吾くん関連で?」
「今は為替も株価も気にならねえよ」
『呉島 勇吾』で検索をかける。
「あ……」と声を漏らした。
いくつかのニュースが並んでいる。
以前目にした1次選考後に同じブロックの奏者が押しかけた記事や、このタイミングでのアルバム発表について、彼の生い立ち、そういうものの一番上に最新のニュースがあった。
アメリカのクラシック雑誌に、勇吾くんが大々的に報じられたという内容だった。
「おい、このタイミングで評論は御法度だろ」
「そうなんですか?」と聞いたが、考えてみれば、確かに審査に影響するかもしれない。
日本のワイドショーならまだしも、今回記事に引用された雑誌には、それなりの権威と影響力があるらしかった。
「読んでくれ」と柴田さんはフロントガラスの向こうを睨みながら言った。
私は翻訳して引用された評論を読み上げる。
──スケルツォから始まった1次選考、呉島 勇吾は、まるで皿の上の林檎を掴んで弄び、傍らのバスケットにでも放り込むように、我々を興奮させ、不安にさせ、また掻き立て、そうかと思えば深い悲しみの底に突き落とした。
彼にとって、人の心というのは目に見えて、触れられるものなのだ。
しかし、そうした感情の揺さぶりを期待して臨んだ2次選考、彼は全く逆と言っていいアプローチで、しかし前回を超える感動を我々にもたらした。
譜面に書かれた強弱記号はほとんど数学的と言って良いほど厳密に守られ、音楽そのものの持つ自然な時間の流れに決して逆らうことなく、細部の一音に至るまで、まるで舞台の脇役が脇役としての役目を果たすように、和音や展開を決定付ける重要な音ではない音が、『そういう音ではない』という明確な役割を負ってそこに存在していた。
それはおそらく、これらの曲を知る者なら誰もが『そうあるべき』と思いながらも、誰もそれを完全に実現することの叶わなかった、『完全な音楽』だった。
驚嘆すべきは、一方で強烈に聴衆の感情に訴えかけたと思えば、また一方では徹底して自我を排した哲学的ともいえる演奏をやってのけた、その全く異なるスタンスを、一人のピアニストがとり得たということである──
私はこれが額面通りの絶賛なのか、手の込んだ皮肉なのか、よく分からなかった。
「これ、褒めてます?」と聞いてみる。
「エグいくらいな。そして、よく捉えてる。アイツは、ものが見えすぎるんだ。だから時々、自分の弾いてる音楽が脳の処理容量を超える」
車は減速して、駐車場に入った。
✳︎
早朝の空港はまばらだった。お土産屋さんも開いていない。
しかし、まばらながらも、スーツを着た人たちをちらちら見かけるたび、敬意を感じずにはいられなかった。
竹刀袋と防具のバッグを荷物のカウンターに預けている間、柴田さんはずっと渋い顔をしていた。
「その武装は使い所がないと思うけどね」
「あ、いえ、コンクールが終わったら全国大会があるので。少しでも素振りしたりとか、道具に触っておきたくて。それに、防具袋には結構物が入るので、着替えとかも入れてて……」
「臭いんじゃないの?」
「臭くないです!」私は強く否定した。「今の剣道女子は匂い対策も万全ですから。私の防具はいい匂いですよ。嗅ぎます?」
「いや大丈夫」
柴田さんは手のひらを見せてきっぱりと言った。
私には私の戦いがある。それを疎かにしてはいけない。
剣道部のグループラインにメッセージを送った。
「緊急の用件でポーランドへ行きます。竹刀、防具を持っていきます。
急なことでごめんなさい。でも大会には必ず、さらに強くなって帰ってきます。
私が帰ったら、そのことを試してください」
時間はまだ、朝の6時を少し回ったくらいだったが、すぐに返信があった。
部長のアヤカ先輩だ。
「憂いを払って帰って来い。
私のママは、国際線のCAだ。困ったことがあれば言いなさい」
「えっ!?」と思わず声をあげた。
ママって呼んでるの? てっきり「母上」とかだと思っていた。
「よろしくお願いします。滞在先はワルシャワです」と返す。
マユからもメッセージがあった。
「カマして来い! ソイヤッ!」
演奏が終わってから、勇吾くんにも何度かメッセージや電話をしているが、返信はない。
今日は移動だけで1日が潰れる。
日本時間で、明日の朝方にはショパン・コンクールの2次選考が終わり、1日を置いて3次選考が3日間、また1日を置いて3日間の最終選考だ。
3次選考までに勇吾くんを見つけ出し、これ以上深く『音楽に潜る』のを止めなければ、本当にどうなるか分からない。
時間がない。剣道と両立できるような状況ではないのかもしれない。しかし、そうと決めた以上はやりきる。
手荷物検査を受けて、出発ロビーへ進むと、だんだん緊張が増してきて、それが柴田さんにも伝わったみたいだった。
「飛行機に乗るのは初めてか?」
「いえ、飛行機は初めてじゃないんですが、海外は初めてで……その、大丈夫でしょうか。言葉とか」
「あんた、英語は?」
「学校で習った程度しか……」
成績は悪い方ではないが、とても現地人と会話できるレベルではない。
まして、ポーランドだ。ポーランド語というのがあるらしい。はっきり言って、単語を1つも知らない。
「私から離れるな。荷物を手放すな。それだけ頭に叩き込んどけ。
ポーランドの治安は、ヨーロッパの中では『まあ普通』くらいだが、バッグを1分手放せば、消えてなくなるのが向こうの『普通』だ。ぶつかってくるヤツは全員スリだと思え」
「は……はいぃ……」
思わず気の抜けた声が出た。恐ろしすぎる。
なんでも、駅や空港、人の集まるようなところには観光客を狙った集団スリというのがいて、常に虎視眈々と狙っているのだという。
防具と竹刀を預けたことに不安を感じた。
「お前なぁ……」柴田さんは呆れたようにため息をつく。
「だってぇ……」
私は柴田さんに手をつないでもらおうか迷った。
アナウンスが流れる。
「これから行くの成田だぞ?」
成田、ヘルシンキを経由してワルシャワへ。
私たちは飛行機に乗り込んだ。
✳︎
あっという間だった。いや、正確に言えば、20時間くらいの時間をかけたが、入国審査や、乗り換えといった初めての体験に戸惑い、そして飛行機に乗れば、ここからしばらくは何も起きないという安堵、それを繰り返しているうちに、ワルシャワに着いてしまった。
ワルシャワ・ショパン空港。
ポーランドの首都ワルシャワの南10キロに位置し、かつては『オケンチェ空港』というのが正式名称だったが、2001年に改称、フレデリック・ショパンの名を冠することになった。空港のWiFiにつないだスマホで調べたところによると。
個人的な感覚から言うと、改称して良かったと思う。
「しっかしアンタ、よく寝れんね。この状況で」
呆れるのと感心するのとが半々くらいの感じで、柴田さんは言った。
「戦いの前は、身体を整えなくちゃいけないので、私は試合前の方がよく眠れます」
それは本当のことだった。
「得な体質してるわ」
「おかげで、バリバリ動けます」
「そりゃ頼もしいね」
荷物の受け取りなどを済ませ、空港からタクシーで30分足らず、ワルシャワ中心部のホテルに着いたのは現地時間で夜の8時過ぎだった。
「わぁ……」と感嘆の声が漏れた。
自分が外国にいるのだという実感が、ここに来てやっと、それも急激に湧いた。
片側4車線の広い道路がぐるりと円になったロータリーのある角に、ホテルはあった。
「コンクール会場のワルシャワ・フィルハーモニー・ホールまで徒歩10分。どうだ、見たかよ。この圧倒的調整力を」
「すごい。でも、こんな大きいコンクールがやってたら、ホテルも空いてなかったんじゃ」
「敗退者の家族が帰るんだよ。だからそういう空きがあれば連絡するように、あらかじめ言っといたワケ」
「いつでもワルシャワに入れるように?」
「そういうことだ」と柴田さんは大きな胸を張る。
「すごい。美人な上に、ピアノも弾けて、さらにこんな手配まで……」
本心から出た言い草が思いの外大袈裟で、かえって嘘臭いかと心配になった。
「何だお前! そんな褒めたって別にお前、何も出ねえぞ? 飴食うか?」
早速バッグから飴玉が出た。
「ありがとうございます」
多分、この人はいい人なんだと思う。
今は余計なことは考えない。勇吾くんを、必ず見つけ出す。私にはその理由がある。
私はピーチ味の飴玉を口に含むと、奥歯で噛み砕いた。
「おい! いきなり噛んでんじゃねえぞ! 虫歯になるだろうが!」
しかも、面倒見もいい。