11-5. /呉島 勇吾
────音が聴こえる。
一つは神経系の働く高い音。もう一つは血液の流れる低い音。
アメリカの作曲家ジョン・ケージは、ハーバード大学の無響室でこの音の存在を知り、「沈黙の不在」という観念を得ると、環境音を音楽として流転する発想に至って、『4分33秒』を作曲した。
「その時間、演奏者は何も音を発しない」という禅問答みたいな音楽だ。
それから、空調だろうか、蜂の羽音のように低く唸って、チカチカと何かを囁くのは蛍光灯かもしれない。
目を開くと、白いペンキ塗りの天井に薄茶色いシミを見つけて、憂鬱になった。
大の字に手足を広げて、仰向けに寝転がっている。どうやらベッドの上だ。
ここは、地下室だな、と直感した。
外界の音や光から隔絶されて、空気の停滞する具合なんかは、どうもそんな感じだ。
さて、俺は一体どうした事情で、こんなところにいるのだろうか?
そして、その『俺』というのは、一体誰だ?
自分の顔を触ってみる。
鼻が尖って、目が落ち窪んで……冷たい耳が、顔の横に生えている。
「うーん……」と唸った。多分、みんなそうだ。他に分かることはない。
そうやって自分を知ろうとまさぐる手だけが、古傷だらけで、歪で、特徴的だった。
仰向けのまま自分の身体を見下ろして、襟周りを触ってみる。
白いウィングカラーのシャツに、シルバーのベストを着て、真っ黒なパンツをはいているが、上着はないし、タイも締めていない。
のっそりと体を起こすと、向かい合ったのは堅固に構えたコンクリートの壁の隅で、俺は入り口の方を枕にして、部屋の奥に寝ていたらしかった。
辺りをキョロキョロと見回す。
広い。
部屋の中央に、グランド・ピアノがあった。
なんだ。それなら、他に何も考えることはない。
欲を言えば、腹が空いた。それも、かなり空腹だ。でもピアノがあるなら、文句を言うほどのことではないし、言う相手も見当たらない。
ベッドを軋ませながらゴワゴワしたシーツの上を滑り降り、よろよろとピアノに歩み寄った。
入り口に両開きの大きな鉄扉が不機嫌そうに口を閉じている他には、のっぺりとコンクリートの壁に囲まれたきり、窓もない。やはり、地下室だ。
俺は蛍光灯の平板な光を黒く照り返すピアノに触れて、その滑らかな表面の感触を確かめた。
蓋は開いていて、中の弦やハンマーがよく見える。
背もたれ付きの椅子に座ると、鍵盤に指を落とした。
『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』Op.22 変ホ長調
1830年、フレデリック・ショパンが協奏曲の1番、2番と同時期、管弦楽とピアノのために、まずポロネーズ部分を作曲し、その前奏にあたる『アンダンテ・スピアナート』は1834年に書き加えられた。
どうも、こういうことだけはよく覚えている。
しかし、俺という人間は、ずいぶん上手くピアノを弾くな、と思った。まだまだ深く潜れそうな感じがする。
それから、『舟歌』Op.60 嬰ヘ長調
1845年作曲。この頃のショパンは病状もだいぶ悪い上に、愛人ジョルジュ・サンドとの関係も悪化していた。
晩年期の最高傑作に数えられるというだけあって、音楽の内容が、かなり深い。
これに潜れば、帰ってこられるか分からないな、と思ったが、指の感触には、どうも相当深くまで沈み込んでこれを弾いた形跡があった。
もしかすると、つい最近まで弾いていたのかもしれない。
そして『3つのワルツ』Op.64……
「うーん……」と、また唸る。
さっと頭に浮かんだまま弾いたのが、これだった。なぜだろう。それこそ最近弾いたからだろうか。
どれも美しい音楽だし、頭の中に残っているどんな演奏よりも上手く弾けた手応えはあるが、いまひとつ、腹に落ちる感じがしないのはなぜだろう。
次にふと浮かんできたのは、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカからの3楽章』だった。
冒頭から白鍵のみを用いた並行和音の強烈な前奏を弾いた時点で、「あ、これだ」と呟いた。
とても、しっくりくる。
第1楽章『ロシアの踊り』
謝肉祭の市場で、魔術師に命を吹き込まれた3体の人形。
ペトルーシュカと、少女のバレリーナ、乱暴なムーア人の3体は、音楽に合わせて激しく踊り出す。
ペトルーシュカは、与えられた借り物の命で、少女のバレリーナに恋をする。
第2楽章『ペトルーシュカの部屋』
ペトルーシュカは、魔術師に小部屋へと蹴り入れられる。
暗い色の壁には呪術的な模様が描かれ、魔術師の肖像がペトルーシュカを見下す。
「お前はただの人形で、人間ではないのだから、従順で謙抑であるべきだ」とでも言うように。
恋をしたバレリーナからも相手にされず、感じやすいペトルーシュカの心は打ちのめされる。
第3楽章『謝肉祭』
少女のバレリーナ人形を巡って、恋敵のムーア人に挑むも返り討ちにあい、ついには殺されてしまうペトルーシュカ。
その惨劇に騒然とする観衆や駆けつけた警官に、魔術師はペトルーシュカが単なる人形に過ぎないことを、おが屑の臓腑を引きずり出して説明する。
人々が去り、辺りが暗くなった頃、ペトルーシュカの亡霊が憤怒の形相で現れ、魔術師は恐れをなして逃げ去り、舞台は幕を閉じる。
そういう、何とも不条理でナンセンスな話に、俺は不思議な共感を覚えた。
俺は、恋をしていたのかもしれない。
そう思った。
藁とおが屑の身体に吹き込まれた、借り物の心で。
シャツのボタンを上から3つ外して、自分の身体を覗き込む。
ずいぶん、巧くできている。でも手の作りだけが、どうも雑だ。
所詮は作り物だから、きっと魔術師がこの部屋に俺を蹴り込んだ時、どこかに心を落としてしまったのだなと思った。
人形の分際でぎこちなく恋をして、人間に憧れる俺を、観客は、俺の知覚できないどこか外の世界から見下ろして、嗤っていたのだろうか。
まあ、いいさ。笑いたいなら笑えばいい。
椅子から立ち上がった。
俺のバレリーナはどこだ?
✳︎
意外というほどのことでもないが、両開きの鉄扉に鍵はかかっていなかった。閉じ込められていたというわけでもないらしい。
扉を出ると、広い階段があって、昇った先は大広間に通じていた。
広い窓から光が射して、質の良さそうなペルシャ織の絨毯を照らしている。
窓辺の壁際、それもなぜかちょうど日陰になる辺りに、男が一人、木椅子に座っていた。
中年と老人の間ぐらいという年格好で、室内だというのに濃い色のサングラスをかけている。レンズを透かして見える右目は極端な斜視で、それを恥じたのかもしれないが、何にせよ、いかにも魔術師じみて見えた。
「やあ、やっとお目覚めか」
「なあ、女を知らないか?」と俺はたずねた。
「女?」
「いや、知らないならいい。で、あんたは、誰だ?」
俺がまたたずねると、男はレンズ越しにも目を細めた。
「逆に、何を覚えている?」
俺は少し考えてから、「音楽を」と答えた。
男は声を上げて笑った。
「それは結構。僕のことは、案内人だと思ってもらえればいい。君を、本物のピアニストにしてあげる」
「俺は本物のピアニストではないのか?」とたずねた。
それにしては、だいぶ上手くピアノを弾く。
「『ピアノを弾く人』という意味ではそうだろう。君の自認の上ではね。ただ、やっぱりピアニストは人前で弾いてこそだよ。それも、ホールいっぱいの大観衆の面前で」
「俺は、それをやったことがある気がする」
「コンクールではね。サロンでも弾いてる。だが君、ショパンを大ピアニストだと思うかい?」
俺は、うーん、と唸った。
「あんまり」
ショパンはピアニストとして実力を認められ、7歳の時には公開演奏を行なっていた。
しかし、一方で「彼のピアノからは小さな音しか出なかった」という評価もあり、生涯通して30回ほどしか公開演奏を行わず、弾くのはもっぱら富裕層や知識人の集まるサロン、主な収入源は富裕層へのピアノレッスンだった。
「では、リストは?」
「ああ、リストはピアニストだ。交響詩を書き始めるまでは」
ピアニスト単独でのリサイタルというものを史上初めて開いたのがリストだ。
自分で書いたピアノ曲を人前で披露したければ、オーケストラ付きの協奏曲を書かなければならなかった時代に、リストはピアノソロで客席を埋めるだけの人気を持っていた。
おそらく、まだ技術的に未完成で、今ほど鳴らなかっただろうピアノを、今ほど響かなかっただろうホールで、十分に鳴らすだけの腕を持っていたからだ。
「ピアニストは、多くの人にそうと認められて初めて、本物のピアニストになるのだと僕は思う」
「よく分からないが、俺は別に、ピアノを弾けるならそこの地下室でも構わない」
俺がそう言うと男は顔をしかめた。
「残念だが、何にでも、お金ってやつがかかるからね。ここの家賃や、君の食事、その他諸々。全くイヤんなるけど、何にだってね」
「そうか。俺はまだピアノで金を稼いでないんだな。だいぶ弾ける方だと思うんだけど」
「その辺は、話せば長くなる」
「ふうん。じゃあ、いいや」
「おそらく4日後、コンクールの3次審査がある。君は2次審査を終え、まあ、通過は確実だろう。仮に何か不当な圧力があったとしても、それを跳ね返すくらいの演奏をした」
「コンクールか。入賞するまで金もらえないだろ?」
「だが、入賞すれば賞金が入る上、有名になる」
「ああ、なるほど。そしたら、コンサートに客が入るわけか」
そして、俺の音楽が、好きな人の耳にも入るかもしれない。
「とても上手な子もいるからね、大変だと思うが、どうだろう?」
「曲目は?」
「ショパンのマズルカとソナタ、それと任意のショパン作品だ」
「その場で好きに選べるのか?」
「いや、もう選んだものを提出してある」
そう言って、男はすでに決められた曲目を説明した。
「分かった。やるよ」
俺はまた、地下室に降りた。
階段を下っていく一足ごとに、何か大切なものに近付いているようでもあり、また遠ざかっているようでもあった。