11-4.そうだ、ポーランドへ行こう/篠崎 寧々
ダメ……ダメ……そっちへ行かないで……!
喉の奥で一人つぶやいた。
自分でも、何がダメなのか、どこへ行かないで欲しいのか、何も分からない。
けれど、彼は指の隙間から零れ落ちるように私の手を離れて、それきり永遠に失われてしまう。そんな気がした。
目も眩むように輝く音符の群を連ねて、ただただ美しい音楽を、一切の力みもなく弾ききると、彼は両手を跳ね上げた。
決して大袈裟でなく、しかし存在感のある、もっとも合理的で、優雅で、美しくて、適切な、あらゆる価値観に照らして正しいと思えるような動作だった。
その残響は、ネットを介したテレビ越しにさえ長く伸びて聴こえた。
私の家族はほとんど呆然として、その様子を見守っている。
勇吾くんは椅子の背もたれに身体をあずけて天井を見上げ、音もなく、ゆっくりと、しかしそれと分かるほど胸を膨らませて深く息を吸うと、やはり音もなく、ゆっくりとそれを吐き出して、立ち上がった。
彼の表情からは、何も読みとれなかった。
画面に客席が映った。
お客さんが一人、また一人と立ち上がる。でもそれは1次審査の時みたいな、熱狂的な反応ではなかった。
「価値のあるものには、その価値に相応しい敬意を払わなければならない」
そういうことを表現しているみたいだった。
彼の演奏には、素人の私にも確かな途方もない『美』があった。
でも、私が欲しいのはそんなものじゃない。
私は柴田さんに電話をかけた。
どうすればいいかは分からない。けれども、そんなことを迷っている時間はない。
柴田さんはコールが鳴る前に出た。
「こんな時間にすみません」
私が言うと、遮るように柴田さんは言った。
「パスポートは持ってるか?」
「はい。作りました」と答える。
「今からそっちへ向かう。ご家族は?」
「一緒に観てました」
「『現在考え得る呉島 勇吾の“状態”について、マネージャーから説明とお願いがある』そう伝えてくれ。『元』は言わなくていい。ややこしいからな」
「分かりました」
私は柴田さんの言ったことを、ほとんどそのまま家族に伝えた。
「確かに、勇吾くんの様子は、少し変だった」
それは私の家族に共通した印象だった。
「私、ポーランドに行く」
はっきりと言った。それはすでに私の中で決定されたことだった。
お父さんとお母さんは、じっと私の目を見つめた。
「寧々、お前は未成年だ」とお父さんが言う。
「うん」
「近場で一泊2日の外泊だとしても、彼氏と一緒ならお父さんは許可しないだろう」
「うん」
「行って、どうするつもりなの? それって本当に、勇吾くんのためになるの?」
お母さんは険しい顔で、私を問いただす。
「分からない。何が起きてるのかも、何をすればいいのかも。でも、きっと、何か良くないことが起きていて、これを放っておいたら、取り返しのつかないことになる。
事情を知って、考えて、それから動く、それはきっと正しことだと思う。でも、そうやって私がぐずぐす悩むのを、待ってくれる人はいない」
「お金は?」とお母さんは厳しい声で言う。
答えに窮する間も無く、お姉ちゃんが口を開いた。
「私が出すわ。高校出たらバイトして返しな」
「奈々……」お父さんが困った顔でお姉ちゃんを見つめる。
「だってさ、他人じゃないじゃん。あの子のために、こんなふうに突っ走ってくれる人って他にいる?」
「お願いします。貸してください。絶対返します」私は家族に向かって頭を下げた。
その時、またスマホが鳴った。柴田さんだ。
時計は朝の4時を指そうとしている。
✳︎
私の両親とお姉ちゃんが3人がけのソファに並んで、テーブルを挟んで向かい合う柴田さんの隣に私は腰を下ろした。
柴田さんは、まるで鎧のようにパンツスーツをばっちり着込んでいたが、玄関で深々と頭を下げた時、「こんな時間に、申し訳ございません」と詫びる声には焦りの響きが混じっていた。
私の家族は、つとめて中立的な態度で柴田さんに接しようとしているみたいだったが、その視線には隠し難く疑いの色がにじんでいた。
お父さんが口を開く。
「率直に申し上げて、私はあなた達が勇吾くんにしてきた扱いに疑問を持っています。しかしすでに、そういうことを議論している段階にはないようにも見える。
まずは現状について認識しなければならない」
柴田さんは、怯む様子もなく、真っ直ぐにお父さんを見つめ返して、言った。
「呉島 勇吾は、まだ15歳の子どもです。仰る通り、我々が、一般的な価値観から言って、にわかにはご理解頂けないような苛烈な境遇に彼を立たせてきたことは否定しません」
「それは、彼自身が望んだことなんですね?」
「その通りです。彼が一晩で稼ぐお金は、大学新卒の平均年収を軽く上回る。しかし、ショービズの世界は水物です。それがいつまで続けられるか分からない。彼はそのことをよく理解しています」
「分かりました。現状をご説明ください」
お父さんの目に、私は怯んだ。それは、大人の目だった。
「はい」と少し間を置いて、柴田さんは話し始めた。
「クラシックの演奏家に必ずついて回るのは『解釈』の問題です。
他人の書いた音楽を演奏する時、作曲者の意図をどう汲み取り、どう表現するか。
呉島はとかく超絶技巧ばかりが取り沙汰されがちですが、世の音楽家が真に恐れていたことは、彼の音楽に対する解釈の『深さ』です。
彼はこれまで幾度となく聴衆の熱狂を呼んできましたが、それは副次的なものに過ぎません」
「なるほど」
お父さんは相槌を打って先をうながす。
「彼の音楽に対する理解は極めて深い。しかし、自ら演奏することを通して、さらに深く、作曲者の意図さえ超えた領域に辿り着くことがあるようです。彼はそのことを、『音楽に潜る』と表現しています」
「勇吾くんは今、音楽に潜った?」
お母さんがたずねると、柴田さんはうなずいた。
「おそらく」
「そうすると、何か、良くないことが起こる……」
そうつぶやいたのはお姉ちゃんだった。
「何年か前、スペインで爆破テロが起きました。その時、呉島はすぐ近くのスタジオにこもっていた。
彼はスタジオから引きずり出されましたが、近くで爆発があったことを知らなかった」
「どうして……」
「『没我の境地』とでも言うのでしょうか。感覚を閉じて、ピアノという楽器だけに集中するそうです。驚異的な集中力で、圧倒的な演奏を見せますが、それと引き換えに、何日も意識が混濁したり、場合によっては一時的に記憶を失うようなことも」
「医師には?」
お父さんが身を乗り出す。
「もちろん診せました。しかし結論は『分からない』
前例がなく、また異常と呼べるほどのものは見当たらないそうです。定期的な診察を受けさせましたが、研究材料にされかけたことで、それ以降は呉島が拒否しました。
何せ彼は、脳科学分野では格好の研究資料です。
今回の演奏は、私の見る限り過去に例のない深度でした。率直に申し上げて、何が起こるか分からない」
お父さんは顔を曇らせた。
「彼はなぜ、そこまでの執着を?」
「彼には常に、強烈なアンチがついて回りました。一つには保身、一つには嫉妬のためです。呉島は音楽学校を2つ卒業していますが、事実上は誰にも師事していない。彼には後ろ盾がなく、しかし多くの音楽家にとって脅威でした。
彼らの一部は観客の熱狂を表面的に捉えて『技巧で聴衆を興奮させることに特化した、中身のない演奏』と断じました。
呉島はそういう者たちを、音楽そのもので捻じ伏せようとしていた」
「今まで彼を表に出さなかったのは、そのため?」
私は隣の柴田さんを見つめた。勇吾くんを、観客の熱狂や、音楽家の嫉妬から遠ざけるため……。
しかし、彼女はそれに答えなかった。
その沈黙には、否定と肯定がどちらも含まれているように見えた。
「このコンクールは少々特異で、『ショパンの音楽とは何か』が問われる。今回、ルドヴィカ・ゲレメクという『ショパン弾き』が現れ、呉島の具体的な脅威となっています。審査の基準いかんによっては、彼女に軍配が上がることもあり得た。
そして呉島は、これまで以上に『勝つ』ということに執着している」
「それで、うちの娘に何をさせようと?」
「会ってもらうだけで結構です。そこで何が起きるか、正直言ってわかりません。何も起こらないかもしれない。しかし、娘さんと出会ってから、彼が目に見えて安定していたことだけは確かです。
我々にはできなかったことが、娘さんにはできるかもしれない。私が勇吾に何かしてやれることがあるとすれば、今はそれしか思いつきません」
柴田さんは、態度も口調も動かさずにそう言ったが、その時確かに彼女の感情が動いたのを、私は感じた。
「あなたは、何をやろうとしているの?」
お母さんが言った。
「コンクールの後、呉島は日本に帰りたがっています。弊社の社長とは、その点で対立している。私は彼を日本に連れ戻そうとしています」
「会社の方針に逆らって?」
お父さんがたずねる。
「はい。そのために、あらゆる可能性を模索しています」
「どうして彼のために、そこまで?」
お姉ちゃんが聞いた。
「私は呉島を……」柴田さんは途中で言い直した。「呉島の音楽を愛しています。しかし、彼は音楽家であると同時に、人間です。正当な権利は保全されなければならない」
お父さんは低く唸った。
「それで、いつ?」
「今」
家族が揃って、「えっ?」と声をあげる。
「いや、そんなすぐにはお金を用意できませんよ」
お姉ちゃんが困った顔で言った。
「全て私が負担します。すでにチケットは手配済み、娘さんには私と同じ部屋に泊まってもらいます。
間違いは起こさせません。断じて」
柴田さんは強く言った。アクセントは「断じて」にあった。
「断られるとは考えなかったんですか?」お母さんが目を丸くする。
「払い戻しはきかないでしょうね。ですが元々呉島に稼がせてもらったお金です。ここで使ってやらなきゃバチがあたる」
少し自嘲気味に、柴田さんは言った。