11-1.月下弾琴/呉島 勇吾
「イマイチだな! 呉島 勇吾!」
劉 皓然は、これ以上めでたいことはない、とでもいうふうに歓声を上げた。
「うるせぇなテメェ! 友だちみてぇなノリで普通にスタジオ入って来てんじゃねえよ!」と声を荒げる。
しかも図星だったのが余計カンに障った。
2次選考は、バラード、スケルツォ、舟歌、幻想曲にポロネーズの7番だけ加えたグループの中から1曲、指定のワルツとポロネーズから各1曲、そして、演奏時間が30分から40分に収まるよう、任意のショパン作品を加えることになっている。
選曲は申し込み時点で提出しなければならないから、弾く曲はとっくに決まっていたが、これをどう弾くかということに苦慮していた。
というのも、2次選考は事務所の社長、川久保が曲を決めていたからだ。
そもそもこのコンクールに出場すること自体、俺は当初全く乗り気ではなかった。
ガキの頃、ジュニアコンクールに勝ち過ぎて出禁を食らってからというもの、俺は十分ピアノで食っていくことができていたし、こうなってくるとコンクールなどというのは、人に決めてもらわないと自分の音楽の価値も分からないヤツが受ければいい、というくらいのものだった。
そこに来て、社長が2次で選んだ曲というのも、俺の性格にも性質にも合わないようなものばかりで、俺は社長が俺をここで敗退させ、鼻っ柱をへし折ろうとしているのだとばかり思っていたが、後で話した限り、どうもそうではないらしい。
劉は本当に十年来の親友みたいな調子で、ピアノの前に座る俺の肩に腕を回す。
「まあまあ、そうカッカしなさんな。どれ、俺が一つ、詩を吟じてしんぜようじゃないか」と咳払いすると、これまで一人で散々カッカしていた自分を棚に上げて、朗々と歌い出す。
独坐幽篁裏
弾琴復長嘯
深林人不知
明月来相照
「いや分かんねえよ。何だいきなり」
「つまりな、こう歌ってるわけだ」と劉はそれを英訳した。
Alone, I sit by the side of a deep bamboo forest.
(独り竹林に座し)
I play a Chinese harp and recite a poem slowly.
(琴を弾いては長く吟ずる)
About this deep forest, people know nothing.
(深い林に人知れず)
The bright moon comes and shines it.
(名月来たりて相照らす)
「…………いや、だから結局何なんだよ!」と俺は苛立ち混じりに顔をしかめた。
「何だお前、王維の詩味が分からんとは。音楽家は文学にも精通しないとダメだぞ。リストだってラヴェルだって詩から音楽を作ったし、シューマンに至っては自分で書いてる」
「読んだよ。バイロンもベルトランも。お前んとこのはまた趣旨が違えだろ」
「そこなんだよ。それはお前んとこの夏目 漱石も言ってる。つまりな、この詩の良さは、『それだけ』ってところなんだよ。深い竹藪で琴を弾きながら歌を歌うと、美しい月が昇ってくる。それだけ。お前の国の俳句だって似たようなもんだろ?
恋だの欲だの戦だの、そういう人間の匂いを離れた所に美しさがあるわけだ。
そこが西洋の詩とは決定的に違う」
「ショパンもそうだって?」
その持論には賛同できない。ことによれば、戦争だぞ? と身構えた。
「ああ。我々アジア人の遺伝子に刻まれているその感性を、なぜかショパンも持っていた。だからショパンは、アジアで特別人気なんだ。
もちろん、彼の音楽すべてがそうってわけじゃない。だけど、彼が音楽に標題を付けなかったのは、そういう意味性や、音楽以外のしがらみから、解き放たれたかったからじゃないのか? 少なくとも、そう思える瞬間はあるだろう」
俺は頭から噛みつこうという身体の強張りを解いて、少し考えた。
「まあ、無くもない」
「だろ? そう言うと思った。お前の人間性はゲロ以下だが、音楽に対してだけは、真摯だ」
俺は腕を組んで、椅子の背もたれに寄り掛かった。それから、頭の中でプログラムや楽曲の構成を俯瞰して、再び鍵盤に指を落とした──。
最初の1曲を弾き終えた時点で、劉は声を上げた。
「ちょっと待て! 呉島 勇吾! みんなにも聴かせよう!」
「みんな?」と顔をしかめる。
「『4M組』のみんなに決まってるだろ」と劉は言った。
1次の4日目前半(Morning session)で脱落した連中のことだ。「みんな来るって言ってた」
「だから何で来るんだよ!」
✳︎
寧々に電話をした。
毎日メッセージのやり取りはしていたが、電話で話すのは半月ぶりくらいで、感じを掴むのに少し時間がかかった。
「賑やかだね」と寧々は言う。
俺の後ろで、中国の劉とイギリスのライリー・リーが、モーツァルトとベートーヴェンのどっちが偉大かで対立し、それに他の連中も加わって喧喧囂囂の言い争いをしている。
「ああ、そうなんだよ。今日、当日だぜ? 信じらんねえよ」と苦笑して、後ろの連中に怒鳴りつけた。「Shut the fuck up,losers(うるせえよ、負け犬ども)!」
激しいブーイングが起こる。
「今、ひどいこと言わなかった?」
寧々がそう聞くので、「『お静かに願います』くらいの意味だ」と答えた。
「逆効果みたいに聞こえるけど……」
「捻くれ者なんだよ揃いも揃って。飲まなきゃやってられねえぜ」
「え……何飲んでるの?」
「オレンジジュース」
「そっか、良かった」
背後から不意に声がかかった。
「C'est ta cherie(彼女)?」
フランスのニナ・ラブレだ。
「Oui」と答えると、ニナはそれを英語で触れ回った。
「見せろ!」の大合唱が起きる。
寧々はその騒乱に、「何? 何?」と戸惑いの声を漏らす。
「俺の彼女を見たいって騒いでんだ。相手にしなくていい」と俺は言ったが、寧々はちょっと待って、と電話越しにゴソゴソと何かやり始めた。
俺のスマホに寧々の顔が映った。
「私も勇吾くんの顔が見たい。新しいお友だちも」
日本を離れる時と、少し髪型が違った。上まぶたのすれすれくらいまであった前髪が、すっきりしている。
「髪、切ったんだな」
「うん」
そうする間に、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』から、アリア『恋とはどんなものかしら』を下手なユニゾンで歌っていた連中が、一斉に俺のスマホに群がる。
「は……はろー……」寧々は恐る恐る手を振る。
「So cute!」中国の 李 梦蝶が声を上げた。
「ま、まいねーむ、いず、ネネ・シノザキ」
寧々の自己紹介はまるでブロークン・イングリッシュのお手本みたいだったが、名前はなんとか伝わったみたいだった。
「Oh! Nene!」「NENE……」「ネネ……サン」と彼女の名前を口々に声に出して共有する。
「『勇吾くんと、友だちになってくれて嬉しい』って、通訳して」と寧々は言った。
「いや待て寧々。友だちになんかなってねえぞ。ピアノ弾きは全員敵だ」
俺はその重大な誤解について訂正した。
「どうして? 私とマユは友だちだよ。ライバルだけど」
「いや、俺はそういう感じじゃねえから」と抵抗したが、寧々はこれまでに見せたこともないような強引さで、それを伝えろと言ってきかないので、俺は渋々英語に訳した。
すると、カナダのノア・ルブランがスマホの前に割り込んで、言った。
「ネネサン。ワタシは、ノア・ルブランでス。しょうみなハナシ、ニホンのAnimation、とても、スキですよね。Ah……アナタは、トテも……天使デスね」
「お前、普通に口説いてんじゃねえよ」と俺は割って入る。
「No、ユーゴ、ワタシ、ニホン行ったことありマスよね。しょうみなハナシ、彼女、ヤサシイね」
どこで覚えたのか知らないが、ルブランは「しょうみなハナシ」という言葉を、「so」のように使うフレーズだと解釈しているようだった。
ルブランが日本語を話せる(俺にはそう評価していいか微妙なセンだったが)ことに気づくと、連中はルブランにあれを言え、これを伝えろとまくし立てた。
ルブランはそれに戸惑ったようだったが、抜粋して伝えることにしたようだ。
「イタリアのレオは、こう言うてマスね。
『ユーゴは、しょうみなハナシ、めちゃ強いネ。絶対勝つから、オウエンしてクダサイ』
チャイナのリュウは『ユーゴにポエム教えたのはジブンだ』言ってますよネ。
UKのライリーは『ユーゴのピアノは今までと違うperformanceになる』言うてますネ。ワタシもそうオモう」
寧々はそれを聞きながら、前髪を恥ずかしそうに手ぐしでとかした。
「みんな、勇吾くんのこと、応援してくれてるんですね」
ルブランがそれを訳すと、連中は皆、複雑な顔をした。
「それ、チョットちがうデスね。みんなくやしいデスから、ユーゴ負けたらイイ思ってますけど、負けたら、自分が、負けたヤツに負けたことになるカラ、しょうみなハナシ、それ、めちゃイヤですネ。みんな負けずギライだから」
寧々はハッとしたような顔をしてから、笑った。
「それ! その気持ち! 私、分かります!」
「じゃア、ネネサンも、負けずギライですネ。ソレから、ロシアのナターシャと、コリアのソアが同じコト言うてマスね。
『ユーゴ、性格サイアクですケド、愛がある。コレきっと、ネネさんのオカゲですネ。彼言うてマシタ』」
「おい! 余計なこと言ってんじゃねえ!」
顔から火が出そうだった。
寧々が言う。
「それは、私だけじゃないです。私の出会ってきた人が、私に優しくしてくれたから、私は彼に優しくできたし、彼も今まで、たくさん優しい人に出会ってきました。今、そこにいるみんなも」──
✳︎
迎えの車が来て、俺は後部座席に乗り込んだ。
文庫本を開く。劉 皓然が俺に寄越したものだ。
夏目 漱石『草枕』
日本語を勉強するつもりで原語版を買ったが、難しすぎて持て余していたという。
奴の言った通り、王維の他、いくつかの詩が引用されていた。
「ショパンを弾く前に、漱石?」と社長がからかうように言った。
「今日の俺は、ちょっと凄いぜ」
俺は口の端を吊り上げた。