1-9.俺たちは、戦うことをやめない/呉島 勇吾
(この女、エゲツねえ……)俺は内心ため息をついた。
パンケーキを食わす喫茶店を出た後、別の店でパフェ、ぜんざい、モンブランときてシメにクレープだ。俺もそれなりに甘党を自負してきたが、さすがにここまで来ると、口の中が甘ったるくて辟易する。
とんでもない怪物を目覚めさせてしまった。
「ありがとう。最っ高の贅沢! お腹いっぱい! もう、食べられない!」
駅を南に下ったところにある大きな公園のベンチに並んで、クレープを平らげると、さも満足そうに篠崎はそう言った。
「そりゃそうだろうよ」
これ以上食われてたまるか。俺は負けるのが大嫌いだ。
「それで? 呉島くんは、どうして、落ち込んでたの?」と彼女はだしぬけに聞いてくるので、俺は驚いて彼女の顔を横目に見た。
「落ち込む? 俺が?」
「だって、そうでしょ? パーッと発散したい気分だったワケじゃない」
「別に、そういう気分の時はあるだろ」
噴水の前を行き来する人通りに目を移してそうごまかした。日は沈んだが、街頭の灯りがやけに眩しい。
「そういう気分になる原因のこと」
俺は、少し考えたが、諦めて口を開いた。
「他人に言っても、しょうがねえよ。贅沢な悩みだとか、そう思われるのがオチだ」
「じゃあ、私の悩みを言うね」と篠崎は言った。
「あ?」虚を突かれて思わず声を漏らす。「いいのかよ。そういうのって、あんまり知られたくねえもんじゃねえのか? 俺はそうだ」
「うじうじ悩んでた2人が、一緒にパーッとやった。次は前を向く番だと思うの。ここで終わったら、ただ肥るだけ。呉島くんと2人で前を向けたら、私は心強い」
確かに、そうかもしれない。どうせ明日はやってくる。生きている限り、そのことからは、誰も逃れられない。
篠崎は、大きく息を吸い込んで、それから、何かを待つように、間を空けた。
「中学の試合で、膝を怪我したの」
「ああ」と俺は続きを促した。その怪我はすでに完治している。彼女の問題はその先にあるはずだ。
「大事な試合で、私は団体戦の大将だった。私が勝てば、決勝に進む。そういう試合で、私は不戦敗になった」
「仕方のねえことだ。好きで怪我するヤツぁいねえ」
「そうかもしれない。でも、私はそれから、面をつけられなくなった。怖いの」
「また、怪我をすることが?」
「違う。期待されることや、それを裏切ることが。けど……」と篠崎はうつむく。「あきらめられない」
ああ、と、俺は、目を細めた。
「俺がこうやってピアノを続けてるのも、多分、俺の中に流れる血が、それを求めるからだ」
「そう。多分、そういうことだと思う。負けても、弱くても、自信がなくても、それをせずにはいられない。そういう気持ちだけで、何とか面をつけて稽古に参加出来るまでにはなった。でも、いざ相手と互角の勝負をしようとすると、また、誰かが私に期待するんじゃないかと思えて怖くなる。足が、前に出ないの。自分が真っ二つになったみたいで、苦しい」
篠崎の声は弱々しく、そして次第に震え始めた。しかし、両腕には強く竹刀を抱きしめている。
「だがお前は、その竹刀を手放すつもりがねえ」
「私は、自分が嫌い。あの時、もう治らないくらい、壊れてしまえばよかった。いつもそんなことを考えてる。そうすれば、あきらめられた。あの時の仲間も、きっと同情してくれた。そんなふうに考える卑怯な自分が嫌い。臆病な自分が嫌い。そのくせに、戦うことをやめられない、未練がましい自分が嫌い!」
「戦うことをやめられない……」俺はその言葉を、反芻した。その言葉の味や、匂いや、温度を、確かめるように。
それから、背を丸めてうずくまる篠崎 寧々の肩に手を置いた。
「俺は、少し驚いてるよ。俺とお前は、やってることも、性格も、何もかも真逆だと思ってた。上っ面は理解出来ても、芯のところで分かり合うことなんか出来やしねえと思った。だが、逆だったよ。俺とお前は、上っ面は違っても、芯のところは同じだ」
「私と、呉島くんが……?」彼女は、潤んだ瞳で俺を見つめる。
俺は自分の中に急に沸き起こる感情に戸惑った。俺は、他人のために、こんなふうに考えたことが、今まであっただろうか。
──こいつのために、俺が今、出来ることは何だ?──
「俺がピアノを弾き始めたのは、3歳の頃だ。保育園で先生が弾いたピアノの伴奏を、一度聴いて正確に再現したので、『コイツは何かおかしい』ということになったらしい」俺はそう切り出した。
篠崎は、何か、反応に窮するように、ただうなずいた。
「その時、俺は何人か、医者のところに連れて行かれたよ。そこでは、サヴァン症候群だとか、ギフテッドだとか、タレンテッドだとか、いろんなヤツが色んなことを言ったが、とにかくとんでもねえ才能があるってことで話がまとまると、両親は、俺を売った」
「え?」篠崎はそれがよほど意外だったようで、しばらく唖然とした。
「音楽が分からなかったからだ。手元に置くよりは、価値の分かるヤツに売っ払った方が金になると考えたんだろう。……俺の手を、見てくれ」
俺は、彼女の目の前に、手の甲を広げて、街灯の光に照らして見せた。
指の股や、関節のシワを伸ばして、そこにある、古傷を指す。
「これ、全部、傷なの?」
「リストって作曲家を知ってるか?」
「ごめんなさい。詳しくなくて」
俺は首を横に振った。何かを知らないことが、悪いことだとは思わない。
「俺は一度聴けば、世間に難曲と言われるような曲でも、ほとんど正確に再現することが出来た。けど、そんな俺がどうしても弾けない曲ってのも、いくつかあった。俺が初めてそれに気づいたのが、そのフランツ・リストってヤツが書いた、『超絶技巧練習曲』という曲集だった」
「それは……とても難しそう。だって、『超絶技巧』って言っちゃってるし」
「単純にな、指の長さが足りねえんだ。もちろん、ガキの手だから、他の作曲家の曲を弾くにも十分な大きさじゃなかったが、そういう場合は、アルペジオ──和音を時間差で弾くことでカバー出来た。
だが、このリストの曲だけは、それでも物理的に不可能だったんだ。何せ、リストってヤツは、とんでもなく手がデカかった。中指に至っては12センチ。これは日本の成人男性の平均よりも、4センチ以上長い」
そこまで言うと、篠崎は、ハッとしたように、俺の顔を見つめた。その瞳には、驚きと、恐れと、同情の色とが、分かちがたく混じり合って浮かんでいた。「まさか……」
「ガキだったからな。アホだったんだよ。切れば伸びると思ったんだ。水かきを切ればもっと手が開くと思ったし、指を引っ張っても伸びねえのは、皮がゴムみたいに縮むからだと思った。だからな、ハサミで切ったんだ」
「どうして、そこまで……」
「それが弾けねえってことが、ただ我慢ならなかったってのもある。だが何より、高名なピアノの先生ってヤツに売られた後で飛ばされたハンガリーじゃ、目や髪の色が違うって理由で攻撃してくる同級生を、圧倒的なピアノの腕でねじ伏せねえことには気が済まなかった」
手に、ひやりと触れるものがあって、俺は少し驚いた。俺の手に刻まれた無数の醜い傷跡を、篠崎は、まるで慈しむようになぞった。
俺は、身体の深いところから、あふれるような言葉を、ただ、思いのままに吐き出した。
「これまで会ってきたヤツは、俺の才能を羨ましがったよ。大した苦労もせずに成功を収めて、他人を見下してると罵るヤツもいた。ビックリ人間みてえな見世物にされたことも一度や二度の話じゃねえ。
なあ。確かに、この才能を持ってることは、俺にとってラッキーだったよ。だが、それ以外に何も持ってねえってことは、俺にとって、いいことだったのか?
そのことが、物心ついた時から、ずっと俺をイラつかせやがるんだ」
「どうして、そんな話を、私に?」
「仲間だと思ったからだ。
もちろん、事情は違う。ものの感じ方や、考え方も。だが、『戦わずにはいられない』お前はそう言った。俺もそうだ。
例え世の中がクソみてえな出来事で溢れ返っても、その中で、ボロっくそに叩きのめされたとしても、俺は戦うことをやめねえ。なあ、お前も、そうだろ?」
夜は深く更けていた。行き交う人たちは、いつの間にか、ふんぷんとした酒気を漂わせはじめ、やがてそれさえ少なくなると、俺たちはようやく重い腰を上げた。
まるで、変わっていく世界に、2人だけが置いてけぼりを喰らったような、そんな夜だった。