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10-8.死にゆく者たちが、貴殿に挨拶を/呉島 勇吾

 防音の扉越しにも外が騒がしくて、俺はロビーに顔を出した。


 団体が10人くらい、受付のあたりで何か揉めている。その時初めて気付いたが、夜だった。


「ああ! ユーゴ、何とかしてよ」

 切れかけた蛍光灯の下で、若い女の店員が言う。


「何とかって?」

 首を傾げたが、そこに押し寄せた団体の1人に見覚えがあった。


 ピアノ選びの時に絡んできた中国人だ。(リュウ) 皓然(ハオラン)


 いや、よく見るともう1人も、俺のすぐ後に弾いたフランス人の女だ。

 舞台裏で蒼ざめた顔をしていたのを覚えている。


「ユーゴ・クレシマを出せってきかないのよ」店員は困った顔で訴える。


 4日目の前半で弾いた、俺以外の8人が揃っていた。


Signore(シニョーレ) Kureshima?」

 その内の1人、彫りの深い男が俺を指して言った。


 イタリア語だ。

「Son qua(ああ)」と答える。


「何ヶ国語も話せるっていうのは本当なんだな。英語が苦手だから助かるよ」


「ヨーロッパ系ならな。(リュウ) には悪いが中国語は無理だ。今のところは。で、何?」


 俺がイタリア語で言った後、英語でも同じことを尋ねると、連中は揃って複雑な顔をした。説明が難しい、という表情だ。


 一番年かさらしいそのイタリア人が、代表するように言った。

「いや、何というか、ここで君が弾いてるって聞いて、一目会わずにはいられなかった。国へ帰る前に。それで、いざ来てみたら、彼らも同じようにこのスタジオの前にたむろしてる。言葉が通じないから分からないけど、多分、同じじゃないかな」


「私たちのブロックは、あなた以外、全員ここで敗退した」とフランス語で言うのはさっきの女だった。


「ああ、知ってるよ。何やってんだお前ら」と顔をしかめながら、そのやり取りを翻訳しなければならなかった。


あんなの(・・・・)の後で、まともに弾けるかよ!」

 食ってかかるように声を荒げたのは(リュウ) だった。


「知らねえよ。お前のメンタルの問題じゃねえか。お互い本気だろ?」

 このやり取りをまたフランス語とイタリア語に翻訳する。


 驚いたことにみんな(リュウ) の意見に賛成だった。


「マジで何しに来たんだよお前ら」


 俺が呆れて眉尻を下げると、年かさのイタリア人、ランベルティーニが口を開いた。

「一度聴いた曲は忘れないって?」


「ああ」と答えた。


「誰がどう弾いたかも?」


「何なら再現出来る。ミスタッチの1つまで」

 俺がそう言うと、ランベルティーニは笑った。


「俺も正直、自分が何をしに来たのか上手く言えそうになかった。だが、彼らに会ってはっきり分かったよ。

 俺のことを、君に覚えていて欲しい。俺がどう弾いたか、何を込めたか、どんなピアニストだったか」


「遺言みてえだな」


「そう、これは、いわば遺言かもしれない。

『死にゆく者たちが、貴殿に挨拶を』」

 それはアルカンの小曲集『エスキス』の中にある1曲の標題だった。


 俺は目をつむって、少し考えてから言った。

「分かった。弾けよ」


 女店員が喰らい付いた。

「ユーゴ! 料金! お金払えって言って!」


 俺はそれを英語で伝える。


 (リュウ) が鼻で笑った。

「そんなもん、クレシマ持ちに決まってんだろ。一人だけ抜けやがって」


「ふざけんな。お前らどうせボンボンだろ。ケチ臭えこと言ってんじゃねえ」と抗議する。


「お前こそケチだ!『リヒャルト・シュトラウスより金にがめつい』って、SNSに書くからな!」


「お前、タチ悪すぎだろ」


 結局、金は彼らが払ったが、12時間パックで俺のスタジオは占拠されることになった。


 本格的に居座ることを決心すると、彼らは俺を連れ出してスーパーで適当な食い物を買い込んだ。


 スタジオに戻った時、「出来ればショパン以外で頼むぜ」と俺は言ったが聞き入れられず、せめて曲がカブるのだけは勘弁してくれという所で交渉は着地した。


 ところが今度は誰が何を弾くかというところで揉め始め、俺は勝手に押しかけられた上に場所を提供している立場にも関わらず、彼らの揉め事の間に入って通訳しなければならなかった。


 最終的に、クジ引きで最初の奴から好きに弾いていいというルールが決まると、俺たちは部屋に入った。


 元々、バンドのためのスタジオで、9人入ればさすがにちょっと窮屈、というくらいの広さにロビーの椅子を並べるともなく置いて座った。


 彼らはピアノを弾き、合間合間にロビーに出ては食い物を摘んで、音楽論を戦わせたかと思えば、故郷の話や、身の上話、ワルシャワで起きた珍事などについて談笑すると、またスタジオに戻ってピアノを弾いた。


 これが、夜通し続いた。


 俺は、この日のことを忘れないだろうと思った。


 彼らは、ピアノを、音楽を愛していた。


1. レオポルド・ランベルティーニ / イタリア

 ショパン:アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ

      変ホ長調 Op.22

 バッハ:フーガの技法 BWV1080


2. ニナ・ラブレ / フランス

 ショパン:24の前奏曲 Op.28

 ドビュッシー:『映像』第1集


3. リー・ソア / 韓国

 モーツァルト:ピアノ・ソナタ第13番 K.333 変ロ長調

 ショパン:バラード第3番 変イ長調 Op.47


4. ノア・ルブラン / カナダ

 ショパン:ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 Op.58

 ベートーヴェン:ピアノソナタ第29番

         『ハンマークラヴィーア』Op.106


5. () 梦蝶(モンディエ) / 中国

 ショパン:4つのマズルカ Op.30

 ラフマニノフ:『音の絵』より第1番、5番、9番


6. ライリー・リー / イギリス

 ショパン:ポロネーズ第5番 嬰ヘ短調 Op.44

 シューマン:『クライスレリアーナ』Op.16


7. ナターリヤ・ラヴロフスカヤ / ロシア

 ショパン:バラード第4番 ヘ短調 Op.52

 スクリャービン:ピアノ・ソナタ第2番 嬰ト短調 Op.19


8. (リュウ) 皓然(ハオラン)

 ショパン:練習曲Op.25-11『木枯らし』

 リスト:パガニーニによる超絶技巧練習曲 第3番

     『ラ・カンパネラ』

 アルカン:スケルツォ・フォコーソ


 プログラムとしての構成などお構いなしに、本番で弾いた、あるいは弾きたかったショパン作品と、自分の好きな音楽を詰め込んだといった内容で、最後に弾いた(リュウ) だけは俺への対抗心を依然バチバチに押し出していた。


 全員の演奏が終わると、またロビーで袋菓子を広げながら、カナダのノアがソナタを2曲も弾いてやたら長かったという批判で紛糾していた話題が、不意に俺の方へ移った。


「国に、大事な人はいるの?」

 そう聞いてきたのはフランスのニナ・ラブレだった。

 ブロンドのショートカットで、痩せた20代半ばの背の高い女だ。


「ああ。まあな」と俺は曖昧に答えた。


 (リュウ) は親指を下に向けて「Boo!」とブーイングを入れる。

 ここまでストレートな(ひが)みというのは、かえって爽快ですらあった。

「こっちは全部投げ打ってんだよ! ムカつくな!」


「練習してなきゃ彼女出来てたみたいな言い方すんなよ」と茶化すと、スナック菓子を一つ摘んで投げつけてきたので、それを掴み、これがお前の末路だとばかりに噛み砕いて見せた。

「だいたい、お前が妬むような身の上じゃねえよ」


 イタリアのレオポルド・ランベルティーニが遠慮がちに俺の顔を覗き込んで、言葉を選ぶように聞く。

「ネットの動画で見たけど、あれ、本当なのか? その、親だとか、育ちだとか……」


「まあ、ソフトに表現すればああなるって感じだな」


 俺の身の上に関する報道は世界中に拡散されたが、そこに関わる連中の違法性が問われるような話は隠された。


「それでも、人を愛せるってすごいことね」ロシア人のナターリヤが言った。


 俺はそのことについて、考えた。

「いや、すげえのは俺じゃねえ。俺は今でも、ドブに捨てられた野良犬と大した違いはねえからな。すげえのは、俺みてえなクズに優しさを分けてくれた人たちだ」


「自分のことを、そんなふうに言うもんじゃないわ」

 そう言ったのは、韓国のリー・ソアだった。

「あなたの大事な人が愛したものの価値を(おとし)めてしまうから」


「私たちに勝ったピアニストの価値も」と中国の() 梦蝶(モンディエ)が続く。


「何にしても!」と唐突に声を上げたのは、それまで置物の1つと数えて差し支えないほど大人しく縮こまっていた、イギリスのライリーだった。

「ここで、ユーゴ・クレシマの演奏を聴かずに帰るって、あり得るか?」


「No」「Non」「不是」「아니오」「Нет」

 どの言葉も、その意味は“No”だった。


 俺は苦笑いして、スタジオの防音扉を開け、ピアノの前に座り、叩きつけるように鍵盤へ指を落とした。


 イーゴリ・ストラヴィンスキー『ペトルーシュカからの3楽章』


 バレエ音楽『ペトルーシュカ』のピアノ編曲版だ。

 藁人形のペトルーシュカは、人形使いの老魔術師に命を吹き込まれ、心を持ってしまう。


 唐突に差し込まれるアクセントや不協和音が、人形のぎこちない(いびつ)な動きを描く。


 人形の心など知る由もない観客が、見世物を愉しんでいる。冒頭の音楽はグロテスクなほど祝祭的だ。


 人間への憧れ、バレリーナ人形への恋、結局ペトルーシュカの望みは何一つ叶わないまま、おが屑の腹わたを引きずり出されて死に、最後に亡霊となって魔術師をビビらせ、物語は終わる。


 下らねえ。俺は生きて戦う。


 哀れっぽく同情を誘って、勝った奴に想いなんか託してんじゃねえ! 立ち上がって、戦え!

 お前らは、それが出来る奴らだろ!


 最後の音を鳴らすと、俺は拍手も待たずに叫んだ。

「次はジュネーヴだ!」


 (リュウ)が立ち上がって俺を睨みつけた。闘志に満ちている。


 俺は続けた。

「その次はエリザベート王妃、チャイコフスキー、ヴァン・クライバーン、浜松国際……かかって来いや! 何度だって返り討ちにしてやるぜ!」


 窓の外の空は白み始めていた。


 ピアニストたちは一人一人、俺に握手を求め、俺はそれに答えた。ある者は俺にハグし、頬にキスをし、またある者(の名を挙げる必要は最早ないだろう)は捨て台詞を吐いた。


「1次通過ごときで図に乗るなよ。次は俺がぶっ倒す」と俺の胸に拳を押しあてる。


 俺も同じように返した。

「やってみろ」


 この空が明けきれば、2次審査が始まる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これまで、他のピアニストを叩きのめして絶望させてきたようなイメージで読んでいたけど、こんな風に敗退してしまったピアニストたちと交流をもつことができたことに、なんというか……すごく、ほんの少…
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