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10-7.この空の、8千5百キロ向こうで/篠崎 寧々

「本日、ショパン国際ピアノコンクール第1次選考最終日を迎えますが、その前日である昨日、史上最年少での1次進出となる呉島 勇吾さんが、珍事件を引き起こしました」


 まるで悪いことでもしたような司会者の言い草に、私は少しムッとした。


 朝のニュースでは、勇吾くんが1曲目のスケルツォを弾き終わった時点で立ち上がってしまったお客さんを矢印でマーキングし、面白おかしくこの出来事を紹介していたが、昨日一緒にこの配信を観ていた柴田さんと天野くんの、この世の終わりみたいな表情が、頭から離れなかった。


「そしてなんと、3曲目、あの有名な『木枯らし』のエチュードを引き終えた時点で、スタンディング・オベーションが! しかし実は彼、まだ1曲を残していたのです」


 司会は、ゲストの音楽ライターに意見を求めた。以前も見たことのある中年の男の人だ。


 この人は、ワルシャワに行かなくていいのだろうか、と私は疑問に思った。


「まず、前提として、今回のような短い曲の合間に、拍手をすることが間違いというわけではありません。ただ、コンクールの場合は1人の奏者が全曲終えた時点で拍手をするのが、『一般的』というよりはもう少し、『常識』に近い感覚ですよね」


「ではやはり、ああいったタイミングで拍手が起きるというのは、かなり珍しいことですか」

 司会が少し大袈裟な反応をする。


「予選のスタンディング・オベーションもそうですが、前代未聞じゃないでしょうか」


 ショパン・コンクールというのは、1つのブロックで普通の演奏会の倍くらい長いし、曲目がショパンに限られる上、勝つために弾くべき曲というのはある程度搾られるから、同じ曲を何回も聴くことになる。

 そういうものを聴きに来るお客さんというのは、聴き手としても筋金入りで、少なくとも拍手のタイミングが分からないような人たちではない。ということを話しながら、以前と同じように、ライターは白熱していった。


 彼は多分、勇吾くんのことが相当好きなのだと思う。


「【ピアノの悪魔】とか言うと、すごく奇抜な演奏をするようなイメージがあるかもしれませんが、実は彼、演奏家としてはむしろ正統派なんですよ。

 楽曲の『正しい在り方』みたいなものを、これ以上ない正確な演奏で描き出す。そういうピアニストです。だからかえってタチが悪い。

 審査員もピアニストですから、本心ではこんな15歳がいたら嫌なんですよね。ところが『斬新な解釈』という評価にも批判にも使える便利な言葉が、彼には使えない。おそらく、彼は今までそうやって楽壇と戦ってきたんじゃないでしょうか。

 そして今回はそれだけじゃ済まなかった。ご覧の通り、聴衆の心に、強烈に訴えかけたわけです」


「最後のノクターンは、印象的でしたよね」

 司会がそう言うと、彼がその日最後に弾いたノクターンと共に、会場の審査員席が映し出された。


 17人の審査員が、二回席の最前列で食い入るようにステージを見つめながら、その内の何人かが、ハンカチで目尻を拭ったり、手で顔を覆ったりした。


 昨日の光景が蘇って、複雑な感情が胸にこみ上げてくる。


「審査員はショパンの音楽を知り尽くした人たちです。彼が弾いた13番──作品番号で言うと48の1という作品は、特別規模の大きいノクターンで、有名な曲ですから、審査員たちもイヤというほど弾いているはずですよ。彼らを泣かせるっていうのは、相当ですよね。

 普通、ノクターンを最初に持ってきて、エチュード2曲、そして最後に大曲を1つというのが一般的です。プログラムとして収まりがいい。

 ですが、彼にとって、今回のメインはノクターンで聴衆を泣かせることだった。そしてまた、彼の生い立ちを知ると格別ですよね」


「では2次進出は確実でしょうか」


「これで落としたら暴動が起きると思いますよ。その時は私も参加します」


 時計を見るとそこそこの時間になっていて、私は慌てて食卓を立ち、洗面台で歯を磨いた。


 彼はまだ、あんな悲しいノクターンを弾かなければならないのだろうか。


  ✳︎


「昨日はごめんね」朝練を終えて、教室の自分の席に座ると、天野くんが来てそう言った。


「いえ、その……私こそ……というか、仕方がないと思う。ピアノを弾く人にとっては」と私は答えた。


──昨日、柴田さんの部屋には、いろんな感情が渦巻いていた。


 スケルツォが終わると、天野くんは声をあげて笑った。

「どう戦えってんだよ、こんな奴と!」


 続く2曲も、ショパンの練習曲の中では1、2の難易度だということだった。


 今はピアニスト全体の技術レベルも高くて、このコンクールに出るような人たちはみんな、そういう練習曲も当たり前に弾けた上で、あえてテンポを少し落とし、表現にこだわったりして差別化を図るそうだ。


 そこにきて、勇吾くんはこれも十分以上の速さで、しかも1段も2段も上の表現を込めた。そのことは、総立ちになったお客さんを見れば素人の私にも理解できた。


『木枯らし』が終わった時、彼は天井を仰いで、深く息を吸った。

 やっと息ができる。そういうふうに見えた。


 もう1曲を残して喝采を浴びせるお客さんに、人差し指を立て「しーっ……」と鎮める勇吾くんの仕草は、もう優雅というのを通り越して、何か現実離れしていた。


 まるで神話の世界から抜け出してきたような、そういう感じだった。


 黒いオニキスのカフスボタンが閃いて、(ひつぎ)を墓穴の底に沈めるのを遠くで眺めているような、静かなのに重々しくて、暗くて、救いのない低音が、一番最初にズンと鳴った。


 その瞬間、涙がぼろぼろ落ちてきて、そこからは、もう前後も左右もよく分からない中、その痛々しい音楽だけが、頭の中を引きずるように流れていった。


 途中、音楽は祈るように敬虔で神聖な響きの長調に移った。柴田さんの話では、これは教会の讃美歌(コラール)なのだというが、私にはその祈りの先に救いはないように思えた。


 そして、音楽は私の予感の通り、それもやり切れない想いをため込んでいた心のタガが外れたように急き込んで、暗く、重く、しかし速く、叫びだす寸前の唸りみたいな苦悩を分厚い和音で響かせた。


 私は声を出して、子どものように泣きじゃくってしまった。

 音楽の持つ悲しさに、心が乗っ取られてしまったみたいだった。


 彼が最後の和音を鳴らした時、天野くんは一言、「クソっ……!」と憎々しげに呟いて、柴田さんの部屋を出て行った。


 柴田さんは、グランドピアノの譜面台にあった楽譜をほとんど鷲掴みにして、私の足下に投げ捨てた。


 私はソファに座ったまま、ジャージの袖で涙を拭って床に落ちたその楽譜を拾った。立ち上がることができなかった。


 『天才ではなかった人たちのための24の練習曲』


 表紙にはそう書かれていた。


「これ、もしかして……」

 私は柴田さんの顔を見上げた。


「ああ、この(・・)クソ野郎が書いたエチュードだよ。これで練習して、アタシにまた、ピアノを弾けってよ。信じられるか? こいつと、もう一度殺し合えって言ってんだよ」

 彼女の顔には、怒りと、悲しみと、迷いと、その他にもいろんな感情が混じり合っていた。


「勇吾くんは、あなたならそれが出来ると思っている……」

 私は鼻をぐずぐずいわせながら、ようやく呟いた。


 柴田さんは、私の隣にどすんと腰を落として、背もたれにのけ反った。


「今すぐポーランド行きのチケットとって、殺しに行きてえよ」


「言葉に、気をつけてください。どこまでが冗談か分かるように」

 私は拾い上げた譜面を柴田さんの膝に置くと、断りもなくテーブルからティッシュを一枚つまんで鼻をかんだ。


「冗談で済むかクソが」


 柴田さんは、体中の空気を全部吐き出すようなため息をついて、それから再び口を開いた。


「アタシもガキの頃は神童だった。地元のちっちゃな地方都市ではな。日本音楽界じゃ最高学府の芸大に、我こそはと息巻いて行ったよ。ところが、そこはそういう神童の集まりだった。考えりゃ分かることだ。

 地元の神童も、そこじゃひと山いくらの凡才でしかなかった。

 アタシはそれでも、意地だけで喰らい付いたよ。もう弾きたくねえのに、弾けない時間が不安で仕方ねえ。

 そうやってな、薄皮一枚つなぎとめてた鼻っ柱を叩っ斬ったのが勇吾だ。

 指の皮ぁ剥げるほどやり込んでた自分のピアノが、アイツの前じゃお遊戯に思えたよ。

 それどころじゃねえ。大学に集まった神童の群れも、化け物に見えた現役プロも、アイツの前じゃみんな無価値に思えた。

 そんなアタシに、もう一回アレをやれって? それこそ冗談だろ」


「私には、あなたのピアノがお遊戯になんか聴こえなかった」


「ハハッ! そりゃどうも!」柴田さんは乾いた声で言う。


「ねえ、柴田さん。私には、勇吾くんが寂しがってるように聴こえるんです。私では、どうしても埋められない寂しさが、彼の中にはあるように。

 私は、あなたが羨ましくて、妬ましいです。彼と同じくらい、音楽の深い所で息ができる人は、きっと世界中にも数えるほどしかいなくて、彼はそれがあなただと思ってる」


「だとしたら何だ? あんた、勇吾をアタシに譲るか?」


「彼はモノじゃない。譲るも譲らないもないです。

 でも、私があなただったら、ここで差し伸べられた手を、絶対に離さない」


 柴田さんは家まで送ってくれた。


 そして何かに結論を出すでもなく、別れた────。



「あの後、真樹さんと何か話した?」


 ミゲルくんが聞いてきて、私はハッと顔を横に振った。

「内緒」


「そう……」

 天野くんの目は、泣きはらした後のように腫れぼったかった。


 授業が始まると、私はぼんやりと窓の外を眺めた。


 廊下側の席から同級生の頭越しに見る窓外からは、詩情を感じるほどの何かを読み取ることは出来なかったし、同じ空の下に、音楽家にとっての希望と絶望を一身に背負ったピアニストがいるのだということも、何か遠く感じられて、そのことが悲しかった。

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