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10-6.この閉ざされた世界の中でだけ、俺は本当の呼吸をする/呉島 勇吾

 序奏から、悲鳴のような鋭い不協和音が高音域に響く。


 それに応えて低音の弦を、深く鳴らした────。


『スケルツォ1番ロ短調Op.20』


 多くのコンテスタントは、まず初めにノクターンの美しい旋律と音色で客席に挨拶をする。

 それからエチュードで技巧と努力の蓄積を見せ、締めにバラードやスケルツォで音楽の厚みを見せる。


 俺はプログラムを逆に組み立てた。


 紳士淑女の皆様方へ、【ピアノの悪魔】より、不協和音とめくるめく技巧のご挨拶を。


 逃げ惑うように急速で不規則な右手のパッセージを、脅かすような意地の悪い左手の跳躍が急き立てる。


 すると今度は運命的な高音域の和音から、急速に下降し、かと思えば駆け上がり、鍵盤の上を跳ね回る。


『スケルツォ』とは、本来イタリア語で『冗談』を意味する。


 ショパンの熱心なファンだったロベルト・シューマンは、このスケルツォに困惑してこう表明した。

「《冗談》が黒いヴェールを被って歩き回るなら、《真摯》はどのように装えばよいのか」


 ショパンは本来軽妙な音楽だったスケルツォから、『急速なテンポの3拍子』という形式だけを取り出し、その中に悲劇を詰め込んだのだ。


 和声は終始不安定に、目まぐるしくのたうち回るように変化し、やがて力尽きるように速度を減じながらも、低音にはその熾火(おきび)のような熱さを残し続ける。


 そして目をつむるように静まると、遠い日を夢見るような中間部に入る。


 このスケルツォはショパンが活動の拠点をウィーンに移して間もない時期に書かれた。


 学生時代のショパンは帝都ウィーンでひと夏を過ごし、演奏会で脚光を浴びたが、いざ本格的にそこでの成功を夢見て国境を跨いだ数週間後、ワルシャワでは武装蜂起が起きる。


 自分も蜂起に参加して戦うことを迷ったものの、親友、家族の説得の末、芸術家として生きることを決意してショパンはウィーンへ向かうが、そこで一人クリスマスを過ごす寂しさと、祖国の政情の不安は、ショパンを格別の郷愁に駆り立てた。


 このスケルツォの中間部には、ポーランドのクリスマス・キャロル『眠れ幼子イエス』が引用されている。


 俺には今、「寂しい」という気持ちが分かる。


 伴奏の左手が上昇するのに伴って、静かなクレッシェンドで高まり、静かなクライマックスを迎える。


 感情が溢れて叫び出すのとは違う、切なさが降り積もっていくような高まり。


 俺によくしてくれた酒井やマユ、減らず口を叩き合った笹森、男にしては長い髪を屋上の風になびかせている阿久津、含蓄(がんちく)めいた言葉で俺にいくつかの啓示を与えた校長、いがみ合いながらも共にクソみたいな境遇に抗ってきた真樹、そして、寧々……。そういう人たちと離れて、俺は寂しい。


 だが、俺は戦うと決めたのだ。


 自分が何と戦えばいいのかも分からねえガキのころから、俺はそのことだけは決めていた。


 戦いの口火を切るように、冒頭の不協和音が響く。


 聴け! ポーランド! 俺が【ピアノの悪魔】呉島 勇吾だ!


 一層の熱さで最初の主題を繰り返し、強烈な推進力で終結部(コーダ)へ突き進むと、「sempre(常に) piu(より) animato(活き活きと)」の指示を受けてさらに速度を増す。


 すべての鍵盤の芯を喰って、最高速度に達する上昇半音階を駆け上ると、終始の和音に石畳を割るような重さを込めて、指を落とした。


 横目で客席を見た。


 何人かの客が、立ち上がって手を叩く寸前でハッとその手を止め、慌てて座り直した。


 俺は深く息を吸うと、その残響が消えきらぬ内に、次の曲に入る。


 ここで聴き手の意識を切らない。


『12の練習曲 Op.25 第6番 嬰ト短調』

 長くても2分そこそこという短い音楽ながら、ショパン作品の中でも最高難度の練習曲だ。

 右手重音によるトリルと半音階で、ショパンは革新的な指使いを生み出し、この奏法でピアノ音楽の可能性を押し広げた。


 冒頭の指示は「sotto voce(声をひそめて)


 右手は常に3度の重音で、親指と中指、人差し指と薬指のセットを素早く交互に入れ替え、潜らせ、飛び越しながらも、音楽は常時レガート(滑らかに)を維持する。


 俺はここで、スケルツォとは完全に音色を変えた。


 ピアノに限らず、楽器というのは大きい音より小さい音をコントロールすることの方がずっと難しい。


 下手な奴なら指がこんがらがりそうな運指の中で、不安なささやき声とため息を描く。


 その先に待つフォルテも、決して叫ぶように嘆きはしない。押し殺していた嗚咽が漏れるような、にじむようなフォルテだ。


 俺は客席に目を向ける。


 あなたの嘆きが俺のピアノに溶けて、いつか残響が消えるのと一緒に、どこかへ消えていきますように。


 最後の和音を静かに、しかしよく伸びる音で会場に響かせると、客席から漏れたため息が、そこに溶け合った。


 俺は消えていこうとするその響きの中に、『木枯らし』の冒頭の寂しいメロディを、水で溶いた淡い絵具を混ぜるように重ねた。


 単音の旋律に和音を加え、ピアニッシモで繰り返す。すると「Lentoゆっくりと」で始まった音楽は突如、「Allegro(速く) con brio(活気を持って)」に、強烈なテンポ・チェンジを見せ、右手の連符がフォルテで雪崩れ落ちる。


『12の練習曲 Op.25 第11番 イ短調《木枯らし》』


 技術的にも音楽的にも、ショパン・エチュードの最高傑作と言えるピアノ音楽の金字塔だ。


 技術的な難所は複雑に飛び回る右手の連符だろうが、重要なのは同時に進行する『3つの拍感』だと思う。


 右手の16分音符は常に、左手の4分音符を6分割する6連符だが、左手は左手で、4分音符を4分割する16分音符が付点のリズムに伴って現れる。つまり、右手と左手で16分音符の長さが違うのだ。


 これがまず複雑にずれ込む2つの拍感を作り出す。


 それに加えて、右手は、小指、人差し指、薬指、親指とかいった具合に、6連符の内4つずつを、1つのポジションで弾くことになる。これが本来6つでひとまとまりの6連符を、4つずつにまとめる『第3の拍感』を生み出すのだ。


 この複雑な拍感の交錯が、音楽に無窮動的なカオスを作り出す。


 ショパンはこういったことを、おそらく計算してやる人間だ。数字に強いポーランド人だから。


 ショパンは自分の書いた音楽に標題を付けなかった。当然、この『木枯らし』というのも、本人がつけたものではない。


 標題があった方が売れ行きがいいというので、出版社の人間か誰かが、乾いた響きと吹き荒れるような連符に着想を得てつけたものだろうが、俺はこの標題には納得できない。


 テンポが切り替わる瞬間の楽想指示は「risoluto(決然と)

 人の手の及ばない、風だとか冬だとかいったものに、『決然』だの『活き活き』だのといった表現が適当とは思えない。


 これは自然の音楽ではない。人間の音楽だ。


 確かに、狂ったように舞い落ちてくる右手の連符は風を、あるいはそれに翻弄される枯葉を思わせるかもしれない。しかし、あくまで主格は、その風に逆らって進む左手の、重厚で力強い『人』の歩みだ。


 自分自身の中に燃える活力で、自分自身の決然とした意志へ、前へ前へと押し進んで行く人間の音楽だ。


 和声は苦難と栄光の間を目まぐるしく往き来して、音のうねりを作り出す。


 これこそが、あんたたちポーランド人だろう。


 錯綜していた拍子が噛み合って、右手は下降、左手は上昇の音形でぶつかり合い、一瞬の休符で(なぎ)が訪れる。


 しかし1枚の木の葉がひらりと舞うと、そこから起こった旋風がまた吹き荒れ、とうとう右手6連符、左手16分音符のコーダへと突き進む。


 雪崩れ落ちるように下降しながら両手の拍子が噛み合い、重厚な和音を叩くと、一瞬の内に両手のユニゾンで5オクターブを駆け上がり、叫ぶように口を開けて俺は両手を跳ね上げた。


 客席から喝采があがる。


 アスファルトを打つ豪雨のような拍手が、ホールの中を鳴り響いた。

 聴衆は衝動を抑えることを諦めたらしい。


 背を反らして天井を仰いだ。


 外界の騒音を遮断し、ステージの音をいかにして客席に届けるか、そのことを計算して作られたコンサート・ホールという建物は、一つの巨大な楽器だ。


 俺は大きく、深く息を吸った。


 素晴らしい出来事だと思った。


 ああ、息をするというのは、こういう感じだ。


 喝采と拍手、そしてその中にまだかすかに残っている音楽の響きが、酸素と一緒に血液に溶けて、身体中を巡っていく。


 俺は客席に向かって、唇の前に人差し指を立てた。


 立ち上がっていた聴衆が、座り始める。


 拍手の残響が消えるのを待って、俺は左手を鍵盤に落とす。


 重く。そして果てしなく暗い響きで……。


『ノクターン13番ハ短調Op.48-1』

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