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10-5.フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール/篠崎 寧々

 10月という季節を、私は、とても複雑な気分で迎えた。


 もうすぐ、勇吾くんのコンクール1次審査が始まる。


 この先に彼を待っているのは、約1ヶ月にわたる熾烈な戦いの日々だ。


 彼が旅立つ前に、話したいことがたくさんあったし、もっとすべきことがあったと思う。


 言葉を尽くして互いに励まし合ったり、当日身につけるお守りみたいなものを交換したり、そんなことがしたかったし、2人の関係性を、もっと……いや、もうこれ以上はとても口では言えないくらいのレベルまで発展させてもよかったように思う。


 勇吾くんがどうして、突然ポーランドへ発ってしまったのか、私は聞きたかった。

 でも、それ以来何度も彼と電話やメッセージでやりとりをしながら、私はそうはしなかった。


 一つ、確かなことがあるのだ。


 私は私の戦いに、彼は彼の戦いに、全霊をもって臨む。


 胴紐を固く結んで、並べた小手の上に乗せた面の手前で、私は目を閉じた。


 床を踏み込む戦士たちの足音、打ち合う竹刀の音、咆哮、旗の音と審判の声、時間を告げる笛、おびただしい闘志が渦巻いて、その中で誰かは勝ち、誰かが負ける。


 その余韻がいつまでも残っているように思えた。


『後で考えること』のフォルダに、私は本当にたくさんのことを詰め込んだ。

 勇吾くんからのメッセージは本当にたった一言だった。


 「勝て」


 だけど、動画が添付されていた。


 フレデリック・ショパン 練習曲Op.10-12『革命』


 私は目を開いた。


 座礼して、手拭いを頭に巻く。面をかぶり、紐をきつくしばり、蝶結びの輪を、音を立てて強く引く。


 竹刀を握って、立ち上がった。


 身体が熱くなっている。


 先鋒のマユが一本をとられて決めきれず負けを喫し、次鋒の琴子先輩も敵の守りを崩しきれず引き分けに終わった。


 私の足下で、マユが口惜しそうに唇を噛みながら、絞り出すような声で呟いた。


「ネネ……頼む……」


 中堅のアヤカ先輩が獰猛な叫びをあげながら、鬼神のような戦いぶりで相手を圧倒している。相手がその攻めに怯んで退がった瞬間、強烈な面打ちを叩き込んで、勝利した。


 私はマユを見下ろす。


「任せろ!」


 試合場の外で待つ私の胴を、白線の内側で礼をして下がったアヤカ先輩が拳で叩いた。


「お膳立ては済ましたぞ。寧々、()け」


「押忍!」


 白線を跨ぐ。


 勇吾くん、私は今も、闘志であなたと繋がっている────。


 全日本高校女子剣道選抜大会 地区予選決勝。


 私はこの戦いをストレートの二本勝ちに討ち取り、続く大将戦のナオ先輩も強烈な諸手突(もろてづ)きを立て続けに決めて、私たちは全国大会に駒を進めた。


  ✳︎


 閉会式が終わったのは午後の3時だった。


 それから顧問の先生の話を聞き、記念撮影をして、会場の市民体育館を出た。


 目の前の路肩に、白のレクサスが停まっている。


 マユが、思い出したように言った。

「そっか。今日だもんね」


「うん。ほんとに、私の試合と勇吾くんの演奏はよくカブる」


「で、ラスボスと一緒に応援するわけ?」


「一時共闘」と私は答えた。


 マユは深い感嘆の響きで唸る。

ずんば(・・・)ってんねぇ〜」


【ずんば-る】

 ①目的のために危険をおかす。

 ②厄介な敵にあえて近づく。

 「虎穴に入ら“ずんば”虎子を得ず」から。

 互恵院学園剣道部のみで使われる慣用表現。


 勇吾くんを、日本に取り戻す。


 そのためなら私は誰とだって戦うし、誰とだって手を組む。


 先輩たちに挨拶をして別れ、レクサスに近づくと、そこに乗っている人に気付いて顔をしかめた。


 助手席の窓が開く。

「やあ。試合お疲れ様。どうだった?」


「天野くん。どうしているの?」


 天野 ミゲルは爽やかな、しかし好戦的な微笑を口元に浮かべた。

「俺もピアニストだからさ。呉島 勇吾のショパコン1次を、柴田 真樹の解説で観られる。こんなチャンスそうそうないよ」


 柴田さんは運転席で鼻を鳴らす。


「柴田さんの?」


「呉島 勇吾がいなければ、今頃、真樹さんがワルシャワにいたっておかしくない。俺はそう思ってる」


「やっぱり……」私は呟いた。


 勇吾くんと出会ってから、私は彼のすごい演奏を何度も聴いたけど、柴田さんのピアノにもそれに迫るものがあった。


「乗ってください」と柴田さんはきまりが悪そうに言う。


 慌てて竹刀と防具を後部座席に詰め込んで、自分もそこに乗り込む。

「あの、それで、どこへ?」


「私のマンションに」

 そう言うと、柴田さんはアクセルを踏み込んだ。


  ✳︎


 柴田さんの部屋は、よく片付いていて綺麗だった。

 楽器の弾けるマンションというのは、確保するのがすごく大変なのだそうだ。


 リビングの真ん中に、サイズは小さいけどグランドピアノがあって、隅の方にソファと向かい合ったテレビがあった。


 生活の中心に音楽を置く人の家だと思った。


「いや、でもラッキーだったよね。俺たちとしては。本人には同情するけどさ」

 天野くんは、何の遠慮もなくソファに沈み込んだ。前のテーブルに、チョコレートの袋を広げる。


 フレデリック・ショパン国際ピアノコンクールは、動画サイトで生配信される。

 コンクールは前半を現地時間の朝10時から午後2時まで、後半を夕方5時から夜9時までで行う。日本時間では前半が夕方5時から夜9時まで、後半は深夜0時から朝方4時までということになり、後半だとさすがに人と観るのは難しかった。


 勇吾くんは、コンクール4日めとなる今日、前半のトップバッターだ。


 通常、トップバッターは不利というのが定説らしかった。審査員は大会の基準として点数をつけることになるから、良い演奏をしても点が辛くなるというのだ。


「アタシは、呉島の後に弾くコンテスタントに同情するわ」

 真樹さんは、パソコンをテレビに繋ぐ。天野くんの前では、本性を隠しているみたいだった。


「でもこのブロック、(リュウ) 皓然(ハオラン)がいるでしょ」


 私が説明を求めると、今回の有力候補の一人だという。


 しかし、「どう思う?」と柴田さんがたずねると、天野くんは黙り込んでしまった。


 テレビ画面にスポンサーのものと見えるロゴが映ると、次の瞬間、白地に金色の文字でコンクールのロゴが映し出された。


 XX KONKURS

 CHOPINOWSKI

 WARSZAWA


(XXth CHOPIN

 CONPETITION

 WARSAW)


 後方からステージに向かって、客席の頭越しにコンサート・ホールの全体が見下ろすように映し出された。


 ステージ中央にはグランドピアノが載せられ、虚ろな佇まいで奏者を待っている。


 お客さんがばらばらと入り初めて、天鵞絨(びろうど)張りの椅子に腰を下ろしていった。意外だったが、みんな普段着のような格好で、スーツやドレスを着ている人というのはあまりいない。


 カメラは切り替わって、客席の2階席を正面からアップで映した。一目でそれが審査員席と分かった。

 審査員たちはグラスに水を注いだり、資料に目を通しながら談笑したりしている。


 不意に拍手の音が鳴り出して、ステージにシンプルなドレスを着た女性が現れると、聴き慣れない言語で、何か挨拶をした。彼女が司会者らしい。それから、おそらく同じことを英語で言う。

 審査員が一人ずつ紹介され、立ち上がって礼をするのにお客さんが拍手で迎えた。


 思ったより堅苦しくないというか、意外と温かい雰囲気だと思った。


 しかし、それが一通り終わると、客席は静まり返り、そこに張り詰める緊張が、時差7時間、8千5百キロの距離を越えて、この画面越しにも伝わってくるようだった。


 始まる──。


 そう思った時、スマホが鳴った。


 メッセージだ。

 「もし暇なら、観ててくれ」


 大急ぎで返信を打つ。

 「観てるに決まってる!」


 司会が、おそらくポーランド語で何かを喋った。その中に「Yugo Kureshima」の名前だけを、私は聞き取った。


 もう一度、スマホが鳴った。

 「お前が観ててくれるなら、俺は無敵だ」


 画面が通路を映した。舞台裏だろう。深い色の木目調の壁、床材も木だが色は少し明るい。


 そこに一人の若い男性が立っていた。


 彼は手に持ったスマホを、近くにいた初老の、濃い色のサングラスをかけた、ちょっと怪しげな感じのする男の人に手渡すと、その手をズボンのポケットに突っ込んだ。


 黒のジャケットにスタンドカラーの白いシャツ、グレーのベストを着込んで、ノータイの襟元は一番上のボタンが開いている。


 気負いのようなものが、一切ない。それが、私の好きな人だった。


 司会者がアナウンスを英語に言い換える。


「────He would perform the program on the “FAZIOLI F278”……」


「ファツィオリ!」天野くんが声を上げた。


「え、何……? ちょっと、通訳を……!」と説明を求める。


「いや、バカ高いピアノだよ。新しいメーカーで、ピアノ界のフェラーリ。音は良いけど、誤魔化しが一切利かないって聞く。俺は弾いたことすらないよ」


 彼らしい、と私は思った。


 アナウンスは先へ進む。


「Scherzo b-minor Op.20

 Etude g#-minor Op.25-6

 Etude a-minor Op.25-11

 Nocturne c-minor Op.48-1……」


「全部短調じゃん。真樹さん、大丈夫なの?」

 天野くんが再び声を上げる。


「解説! 解説を!」と私は訴える。呪文みたいで何がなにやら全く分からない。


「音楽の幅とか、色の違いとかを……曲順も普通は……」と天野くんは言ったが、柴田さんがそれを遮った。


「あいつなら、やるさ」

 その声には、勇吾くんに対する深い信頼の色が見えた。


「Yugo Kureshima. from JAPAN」


 勇吾くんは、こちらに向かって、挑発するように舌を出した。


 目の前の扉が、開いた──。



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