10-3.アイデア/篠崎 寧々
「とにかく、じゃんじゃんアイデアを出せ。商売の経験もねえ女子高生がいきなり実用レベルの企画書出してくるなんざ、こっちも期待してねえ。
金勘定はこっちでしてやる。『誰を』狙って『何を』するのか、まずはそれだけでいい」
柴田さんは電話口でそう言った。もうすっかり、私に対して取り繕うのをやめたらしい。
呉島 勇吾を理解して、これまでにない切り口から彼を売り出す。
柴田さんは私にそれができると信頼したのだ。
勇吾くんが日本に帰ってくるためには、日本で稼げるアイデアが必要で、今のところ、コンクールを受賞した後での記念コンサートを除き、そういう企画はなかった。
事務所にとっては、そういうアイデアを捻り出すメリットそのものがなかったからだ。
そもそもヨーロッパで活動していた勇吾くんには、わざわざ厳しい日本の市場にこだわる必要がなかった。今までは。
しかし、彼は今、ピアニストとして日本での価値を高めるための戦いに臨んでいる。
私はその戦いに集中出来るように、違う側面から彼をサポートするのだ。その役目を、柴田さんは私に期待した。
『呉島 勇吾と音楽の夕べ』
これが私が最初に出した企画だった。
勇吾くんは、実は音楽の話となるとおしゃべりも相当上手い。
私の家族がみんな、聴くだけじゃなく、弾くことにも夢中になってしまったくらいだ。
そこで、おしゃべりを混じえつつ、勇吾くんのピアノを聴いてもらうディナー・ショーみたいな形はどうかと考えた。
メールで提案したこの企画に対する柴田さんの返信は、たった6文字(記号含む)だった。
「ダッッッサ!」
思わず彼女に電話をした。
そして、この企画に込めた意図や想いを一生懸命説明した。
「ダメですかねえ……」と聞く私に、柴田さんはまくし立てた。
「もう、全てがダサい! タイトルも、形式も、コンセプトも、全て! アンタは昭和からタイムスリップしてきたのか? 今日本にいる現役女子高生の中で1番センスのねえ女を1人挙げろと言われたら、アタシは迷わずアンタを推すわ。
部屋のインテリア全部100均で揃えろって言われても、アンタよかお洒落にできる自信があるね」
「部屋は! 私もそこそこお洒落ですから!」
「知らねえよ、アンタの部屋なんか」
自分で言い出したクセに! と私は反感を覚えたが、いつまでもそうしてはいられなかった。
「分かりました。次の企画を考えます」
「ああ、そうしろ。あの企画を社長に出したら、何て言うかは目に見えてる。
『ハハッ』────以上だ」
悔しくて、イーッ! となったが、それ以上に、この人の鼻を明かしてやる、という気持ちが湧いてきて、それから私は次々と浮かんだアイデアを肉付けして片っ端から提出したが、反応はどれもひどいものだった。
「文化祭の実行委員に出せ」
「馬の交尾でも眺めてる方が有意義」
「町内の婦人会と同等以下のセンス」等々……。
こんなことを、もう一週間は続けていた。
「あーっ! 悔しいっ!」
その夜も、私は声をあげて机に突っ伏した。おでこが机にぶつかって、ゴチンと音をたてる。
その拍子に、スマホが鳴った。
画面を確認して、飛びつくように出る。夜の10時。ワルシャワはお昼の3時だ。
「もしもし、勇吾くん、元気?」
「ああ。俺は元気だ。そっちはどうだ?」
「元気だよ。とっても」
毎日電話しているのに、こうも離れているとまず相手が無事か心配してしまう。
「天気はどうだ? お前が風邪をひいてねえといいんだが。寒くねえか?」
「少し、涼しくなってきたくらい。そっちの方が心配だよ。ポーランドは寒いんでしょ?」
「ああ、でも俺は出不精だからな。最初のうちこそ街を見て回ったりもしたが、ここのところはスタジオにこもってピアノばっか弾いてるよ。
室内にさえいりゃあ、こっちは暖けえんだ。普通の家でもセントラル・ヒーティングが常識らしい」
「そうなんだ。良かった」
それから、勇吾くんはポーランドで見聞きしたものごとについて、私は部活や学校での出来事について話した。
毎日電話しているから、話題が尽きなかったわけではない。でも、お互い電話を切るのが名残惜しくて、口実を探すように会話を続けた。
「ねえ、勇吾くん」
「ん?」
私の呼びかけに、勇吾くんはとても優しい声で答えた。
その声を聞くと、会いたい気持ちが溢れて、少し声がふるえた。
「勇吾くんが、自分の好きなように演奏会ができるとしたら、どんなことがしたい?」
私が柴田さんと、勇吾くんを日本に引き留める企画を考えていることは、彼には秘密だった。
私の戦場は剣道の試合場で、柴田さんは今や彼の担当ではない。
私と柴田さんがやっていることは、あくまで私たち2人の独断なのだ。
勇吾くんは、あぁ……と少し唸ってから、ポツリと言った。
「客と触れられるくらい近くで、ピアノをぶち鳴らすような演奏会だな」
あ……と、思った。
「例えば、学校で『マゼッパ』を弾いてくれた時みたいな……」
「ああ。どうだろう。あれよりもっと、例えばピアノの下に潜ったり、弦を覗き込んだり、指の動きを間近で見たり出来るんだ」
「本物のヴィルトゥオーゾの演奏が、触れられるくらい近くで観れる演奏会……」
「そうだな。俺はそこで、リストやアルカンにもなかったような、新しい技巧を披露する」
「まだ、あるの?」私は少し驚いて、聞いた。
ピアノ音楽の長い歴史の中で、まだ使われていない技巧などというものが、未だに残っているのだろうか。
「ああ。例えば、親指1本で2つの鍵盤を押さえる技巧が、シューマンの『トロイメライ』だとかベートーヴェンの『悲愴』の2楽章みたいな、割と簡単な曲でも普通に使われてるけど、俺はそれが全ての指で出来る。鍵盤の間を狙って。あとは、折り曲げた親指の先と付け根の関節を使って3度の和音──例えばドとミを弾いたりな。こういうのは、まだ誰もやってねえんじゃねえかな」
「そんな曲があるの?」
「俺が、8歳の時に書いた曲にある。これも、売れなくて絶版になったけどな」
「どうして!」
私は不思議だった。勇吾くんの書いた曲は、身内贔屓を差し引いたとしても、とても素敵だった。
彼は作曲家としても、もっと評価されて良かったのではないか? 素人の感覚でもそう思えた。
「思い返せば、当時俺が書いてた曲は、お前に聴いてもらったようなものより、もっと、おどろおどろしかった。我ながら、ガキが書くもんにしちゃ可愛げがねえし、そもそも出版したところで誰にも弾けなかった。例によって俺が書いたり弾いたりしたってこと自体信じてもらえなかったろうしな」
「そんな……」
「だが今なら、ましてコンクールを獲った後なら、みんな聴いてくれるかもな」
「勇吾くんが、作曲家としても認められるように……」
「リストもショパンも、自分の書いた曲を自分で弾いてた。今じゃ分業が当たり前みてえになってるけど、リストの書いた曲は当時リストしか弾けなかっただろうし、俺もそういうふうになれば、面白いかもなって。
昔みたいに、『弾けるもんなら弾いてみろ!』って曲じゃなくて、みんなが弾きたくなるような曲を書くんだ。弾きたいけど中々弾けない、でも超頑張ればギリ弾ける、そういう曲を」
「それって、すごく素敵だと思う」
私はうなずいた。売れそうだから素敵なのではない。彼はそうやって、ピアニストという人たち全体が、次のステージへ上がるための階段を作るのだ。
もちろん、自分がその頂点に居続けるつもりで。
「なあ、寧々」
勇吾くんの声は、低くて、深くて、でも柔らかかった。
「ん?」
「また、会いてえな」
「うん……」自分の声が、ちゃんと出たのか、判然としなかった。
「今度会えたら、どこに行こうか」
「どこでもいい。でも、今度会えたら、ずっと一緒にいようよ」
勇吾くんは、電話口で笑った。寂しそうな、少し乾いた笑い方だった。
「俺は世界中を飛び回るぜ。ついて来れるか?」
「もう少し、大人になったら。そうしたら、どこにだってついて行く」
「早く大人になりてえな」
勇吾くんはそう言った。
私は少し不安になった。
大人になるということは、どういうことだろう。
それは何かを得る代わりに、何かを失うことのような気がした。もう二度と取り戻すことのできない、大切な何かを。
互いに後ろ髪を引かれながら、私たちは電話を切った。
それから私は柴田さんにメールを打った。
『呉島 勇吾と、新しい音楽の夕べ』
客席の真ん中にピアノを置き、勇吾くんはそこで弾く。お客さんは実際に触れさえしなければ、どれだけ近くで聴いてもいい。
そこで勇吾くんは、これまでのピアノ音楽にはなかった新しい技巧を披露する。誰も聴いたことのなかった新しい音楽を、誰も見たことのなかった新しい技巧で。
ピアニストの卵たちが、彼の音楽を真似て第2、第3の呉島 勇吾になる。それを、勇吾くん自身が、安全なやり方で手引きするのだ。
柴田さんから返信が来たのは翌朝だった。
「保安上の問題が大きい。
また、実際ピアノのすぐ側で鑑賞出来る人数は限られる。
しかし、今までよりはかなりマシ。
あと『夕べ』はやめろ。ダセェから」
「ありがとうございます! もっといいアイデアを出します!」
ほとんど小躍りしそうなくらいだったし、実際した。
これは勇吾くんのアイデアだったが、私の中で方向性が見つかった。
もう、コンクールの1次審査は目前に迫っていた。