10-2.ワルシャワ/呉島 勇吾
通話を切ると、ホテルのベッドにひっくり返って唸った。
やっとのことでスマホの充電が出来て、寧々に連絡ができたのはいい。荷物が無事に届いたというのも結構だ。しかし、寧々は届いたCDを、家族みんなで聴いたという。
俺はこの時初めて、ショパンに深く共感した。というよりは、ショパンのようにやるべきだったと思った。
俺が寧々のために書いた8つの小品は、完全に特定の場所、風景、エピソードを音楽化したものだ。
だから、俺は曲を書くにあたって、音楽の支柱となるイメージを短く言語化し、標題に据えた。
そして、寧々と一緒にいた時に、俺の感じた気持ちやなんかを、音楽に込めた。
それを寧々は、家族と一緒に聴いたというのだ。
ショパンは自分の書いた音楽に標題を付けなかった。
『木枯し』だとか『雨だれ』だとかいったものは、出版社や後世の人間が勝手につけた愛称で、ショパン自身は『スケルツォ何番』とか、『マズルカ何番』とか、曲の形式に番号をふっただけだ。
今なら理由がよく分かる。ショパンは自分の身の回りに起きた個人的な出来事に触発されて、その時の気持ちをいくつも音楽にした。
例えば、以前学校の音楽室で弾いたノクターンの20番は、ショパンが若い頃、身分違いの女、コンスタンツィア・グワドコフスカに惚れながら、想いも伝えずワルシャワを発った時期に書かれたものだ。
ショパンはこれを姉に送って、出版もしなかった。姉の練習用に書いたという説もあるが、俺は違うと思う。
その年にはすでにショパンはOp.10のエチュードを書き始めていた。あれだけ練習課題の明確なエチュードを書ける人間が、練習用に書いたとすれば、課題が曖昧すぎる。
ピアノの名手だったという姉のルドヴィカにとって、練習曲として適当とは思えない。
あれは、女に伝えなかった想いだ。俺はそう思う。
それが出版されるというのは、街頭にラブレターをばら撒かれるのと大差ない。
ましてそれに自分で題名をつけるなど……。
「正気を疑うわ!」と俺は自分自身に向けて叫んだ。そして、寝た。
✳︎
翌日、スタジオで簡単な手続きを済ませると、俺たちはワルシャワの旧市街に来ていた。
レンガ造のカラフルな建物が並ぶ、いかにもヨーロッパの古い街並という風情だ。
「驚いたよ。君が街を見たいなんて言い出すとは」
社長の川久保はそう言った。鬱陶しいほどテンションが高い。
「ああ、できれば人と話そうとも思ってる」
「なるほど! で、まずどこにいく? やっぱり聖十字架教会かな? ショパンの心臓が納められてる」
「あんなもん、ちょっと凝っただけの柱だろ。中身がショパンの心臓だろうがコンクリートだろうが、傍目に見たって分かりゃしねえ。んなもん見るくれえならレントゲンで自分の心臓でも見るわ」
社長は露骨に落胆の色を見せたが、いいオヤジのしょんぼりする様は同情に値しなかった。
「じゃあ、ショパン博物館?」
「いや、いいんだよショパンは。どうせあと一週間やそこらもすりゃ、俺たちの周りはショパンの話しかしなくなる。
俺はポーランドとワルシャワそのもの、そこに暮らす人間が見たいんだ」
俺がそう言うと、社長は目を細めた。
「それが、君の新しいやり方かい?」
「そうだ」と答えた。
俺が興味を持ったのは、ポーランドの歴史だった。
ポーランドという国は、常にロシアやドイツといった脅威に晒され続け、戦いを強いられながら、その中で何度も国を分割され消滅したが、しかしその度にまた立ち上がり、返り咲いた。
一方で、中世から迫害されていたユダヤ人の移民を受け入れ法によって保護し、また国教は一貫してローマ・カトリックでありながら、宗教改革の際はヨーロッパ全土で吹き荒れた、プロテスタントや異教徒に対する苛烈な迫害も、ポーランドでは行われなかった。
こうしたことは、ポーランド人(ならびに当時同盟を結んでいたリトアニア人)が、時流に流されない確固とした価値観と知性を持っていたこと、そしてそれらを守り通し、奪われれば必ず奪い返すという激烈な闘志を宿していたことがうかがえる。
パリに出て以来2度とワルシャワの地を踏むことの叶わなかったショパンも、熱烈な愛国主義だったことが知られている。
「ワルシャワはね、第二次世界大戦時、ナチスドイツによって徹底的に破壊された。
大戦の口火を切ったポーランド侵攻でドイツの空軍は王宮地区や歴史的ランドマークを標的に絨毯爆撃を行い、ワルシャワ蜂起の後は陸軍が徹底的に爆破した」
旧市街に並ぶレンガ造りの建物を眺めながら、社長はそう説明した。
「だが、ポーランド人はそこからもまた立ち上がった」
「そうさ。そこがまた、アツいところだよね。
『意図と目的をもって破壊された街並は、意図と目的をもって再建されなければならない』という信念のもと、ポーランド人自身の手によって厳密に再建された。
ガレキの山をかき分けて、残されたレンガや破片を出来るだけ再利用して元の建物にはめ込み、破壊前の風景画を拠り所に壁のヒビ1つまで正確に再現しようとした」
「執念だな」
「ああ。この再建にあたっても、彼らはソビエト流の街並に作り替えようとする、共産主義の圧力と戦った。
そうそう、お腹空かない? ポーランドの料理はね、ヨーロッパで一番我々アジア人の舌に合うと思うよ。
発酵させたライ麦のスープなんてのは味噌汁に近いし、ピエロギってのは餃子がロシア経由で中国から伝わったもので、これがまた美味いんだ」
俺は呆れてため息をついた。
「あんた、そんだけ詳しくて、何で言葉の1つも喋れねえんだよ」
「誰でも君みたいに聞けば覚えられると思っちゃいけない。ポーランド語はヨーロッパの言語の中でも一番難しいんじゃないかな。ポーランド以外では全く使われないし。そういうワケだから、通訳よろしくね」
「マネジメント側がプレイヤーに通訳させるなんて、前代未聞だろ」
そう言いながら、俺は真樹の苦労を思った。ホテルやスタジオの手配をしたのは真樹だ。聞けば年単位の交渉と調整を要したという。
渋々というわけでもないが、旧市街のレストランに入り、昼食をとった。
古い木の床材と焦茶色のレンガの壁に囲まれた内装は、薄暗いが落ち着いた雰囲気で、食事に集中する環境としては悪くないと思った。
俺は物心ついてからというものほとんどヨーロッパで過ごしたから、舌が日本人というわけではないが、社長の言う通り、日本の料理に味が近かった。
「真樹は、よく俺に日本の料理を食わせた。ほとんど毎食味噌汁が出たし、パンよりも米を食わせようとした。俺が箸を使えるようになったのも、アイツに教わったからだ。ああいうのは、アンタがさせたのか?」
「いいや。彼女自身に、何か考えがあったんじゃないかな。あるいはそもそも彼女が食べたかったからか」
「あいつは今、どうしてる?」
「まだ、迷ってるようだよ。彼女が君のマネージャーになったのも、相当な覚悟があってのことだ。そして彼女の仕事には信念があった。今さらそれを捨てて、またピアノを弾くなんて、並大抵のことじゃない。だが、君のピアノは彼女の魂に火をつけた。さすが悪魔だよ、勇吾」
「あいつはずっと弾いてた。沙婆に心を残すから、地獄にいるのが辛えのさ。ここで生きると腹さえ決めりゃ、地獄もそれほど悪いところじゃねえ」
俺はそう言うと、牛乳の注がれたグラスを飲み干した。
「決まらないなぁ勇吾」
✳︎
それから俺たちは、ワルシャワ蜂起記念碑、ワルシャワ蜂起博物館と見物して回り、ポーランド軍の野外大聖堂を遠巻きに眺めたところで引き返した。
「中にも入れるみたいだけど」
社長はそう言ったが、俺は首を横に振った。
「いや、いい。俺が行けるのはここまでだ」
すると、振り向いた先から、俺に向けて声をかける者があった。
「Diabeł fortepianowy!
(ピアノの悪魔!)」
酒太りした中年の男で、声は陽気だが表情はない。
俺は覚え立てのポーランド語で返事をする。
「Tak jestem taki.
(いかにも、俺がそうだ)」
「驚いたな、ポーランド語が喋れるのかい?」と男が言うので、俺は2日もいたら自然に覚えたと答えた。
男はそれにいたく感激したようで、馴れ馴れしく肩を組んだが、やや申し訳なさそうにとでもいった感じで、「ここは聖十字架教会じゃないんだ。ショパンの心臓はない」と言った。
どうやら、彼は俺たちが聖十字架教会と間違えてここへ来たと思ったようだ。
「いや、間違えて来たわけじゃねえ。俺は今いる人たちの歴史を知りに来た」と答え、旧市街や蜂起記念碑、博物館を見て回ったことを説明した。
「ピアニストのくせに、ショパンの心臓に興味がないのか?」と男は目を丸くした。
「俺は死んだ人間の心臓の在処より、生きてる人間の心が知りたい」
男はいよいよ感極まったとでもいうふうに、俺の手を握ったが、それから照れ臭そうに、冗談めかしてこう言った。
「人の魂を奪うために?」
俺は口角を吊り上げてそれに応えた。
「Właśnie.
(その通り)」
声をあげて笑う彼の求めに応じ、スマホのカメラを睨みつけるようにツーショットの写真を撮って別れると、俺がスタジオに入った夜にはその写真がSNSにアップされていた。
《【ピアノの悪魔】Yugo Kureshima がポーランド人の心を奪いにやって来た!
ワルシャワ蜂起の史跡を巡って奪うべき魂について学ぶ、
この【勤勉な悪魔】を俺は応援するぜ!》
この投稿には批判とは言わないまでも、反論のコメントが殺到した。
その内容はつまるところ、こういうものだ。
《ポーランドには【魔法少女】ルドヴィカがいるだろうが!
ショパンの姉の生まれ変わりだぜ! 勝つのは彼女だ!》
スタジオのロビーで、この投稿を俺に見せながら、社長は笑った。
「ルドヴィカ・ゲレメクも、あの奇天烈なキャラクターで地元から愛されてるね。勝てるかい?」
俺は鼻で笑った。
「上等だ」