10-1.献呈/篠崎 寧々
部活でへろへろになった私が、最後の力を振り絞って家に辿り着くと、勇吾くんから小包が届いていた。
部長のアヤカ先輩は宣言通りの修羅と化し、これまでのクールでクレバーな剣道から一変、鬼神のような戦いぶりで部員たちを次々と血祭りにあげたが、中でも一度勝ってしまった私は完全に気に入られて、身の毛もよだつような稽古にほとんど専属で付き合うような格好となった。
そういうわけで、私は動いてさえいなければ死人と見分けがつかないほど疲労していたが、お母さんから荷物のことを聞くと、玄関に靴を脱ぎ捨て、リビングへ急いだ。
テーブルに乗ったその小包にかぶり付くようにして、まずは外観を観察した。
サイズは目測で、縦37センチ横26センチ高さ13センチといったところ。白の真新しい段ボール箱で、運送会社のロゴがある。何の変哲もない。
まず気になったのは、それがどこから送られて来たか。送り状に記載された発店コードを検索すると、どうやら羽田空港のカウンターから発送されたものらしかった。
ペン立てからカッターを摘み上げ、難しい手術を執刀する外科医のような慎重さで、小包の口を閉じているガムテープに切れ目を入れる。
箱を開いてまず目に入ったのは、東京土産としては定番の菓子折だった。
これで終わるはずはない。
梱包材とそのお菓子を、慎重に取り除く。
その下から顔を出したものは、やはりまた別の菓子折だった。
大小の菓子折を組み合わせて箱に詰め、その隙間を梱包材で埋めている。
彼は空港で見つけた美味しそうなお菓子をたくさん買って、私に食べさせたかったのか? このタイミングで?
そういう気持ちでお菓子を送ってくれたのだとしたら、それは嬉しい。嬉しいけれども、彼には、彼女である私に対してもっと送るべきものがあるはずだ。
それはメッセージ。
土曜の夜、「ワルシャワに行ってくる」と送ってきたきり、彼は音信不通で姿を消した。
こちらからのメッセージにも返信はなし。アプリを使って通話も試みたが、応答がない。
連絡がついたならば、まず『報・連・相』ということについて真剣に訴えたいが、抗議の気持ちよりも、心配が勝って気が気ではなかった。
今までの経験から言って、勇吾くんは傷ついたり落ち込んだりすると、連絡が途絶える。
彼はこのところ、自分のピアノをきっかけに人生を狂わされた人たちのことを考えさせられたり、メディアに付きまとわれたりといったことが続いた。強く振る舞っているようでもだいぶ疲弊していたはずだ。
でも、だからといって、そんな近所のコンビニに行くみたいに、「ワルシャワに行ってくる」の一言で、それから連絡もつかないということが、許されてもいいものだろうか。
というようなことを思いながら、箱の中身を一つ一つ取り出していくと、底に大きな封筒があって手を止めた。
A4サイズの紙がそのまま入る大きさで、中に入ったものの厚みで膨れていたが、上からお菓子を詰めたせいか、中身のシルエットがおぼろげながら浮いていた。
楽譜とCDだ。そう直感するのに十分だった。
封筒には『篠崎 寧々 様』とある。
お母さんの顔を見ると、お母さんは目を逸らした。
それはあなた向けの私信だから、私は見ません、という意味だと分かった。
封筒の中から、譜面を取り出す。
きちんと製本されているが、表紙には何も書かれていない。
1枚めくると、表紙の裏には、彼の肉筆でこうあった。
謹呈 篠崎 寧々 様 恵存
呉島 勇吾
いつか、『呉島 勇吾』をウィキペディアで調べたことを思い出した。
──呉島 勇吾(くれしま ゆうご、生年20⚪︎⚪︎年、月日非公表)は、日本のピアニスト、作曲家──
作曲家!
「勇吾くんが、書いたの……?」
思わずそう呟いた。
私の横から譜面を覗き込むお母さんの顔を覗き返すと、お母さんは「ちょっと、興味を引かないでよ」と言いながら、また目を逸らした。
封筒の口に手を入れて、CDを取り出す。
前にもらったのと同じように、ジャケットにはイラストも写真もない。電気屋さんで売っているような、ただ白いだけのCDだ。
ケースを開いてジャケットの裏を覗いても、何も書かれていなかった。これは、楽譜とセットなのかもしれない。
「CDプレイヤー、部屋に持っていってもいい?」と聞くと、お母さんは少し困った顔をした。
「お母さんも前もらったCD聴くし」
どうしたものかと思っている所に、お姉ちゃんとお父さんが帰ってきた。
お姉ちゃんの大学とお父さんの職場は近くて、時々時間が合うと一緒に帰ってくるのだ。
これは本格的に困ったぞ、と思った。
お父さんはきっと、自分の娘が彼氏とどういう交際をしているか気にしているし、お姉ちゃんも違う意味でそうだ。
もちろん、私たちは何も後ろめたいことはしていないけれども、それを人に見せても差し支えないかというのはまた別の話だ。
しかし、じゃあ家族がいない時まで待てるかといえば、とても無理そうだった。今すぐ聴きたい。
私は考えた末、覚悟を決めて、それをリビングで聴くことに決めた。
お父さんとお姉ちゃんがリビングに顔を出すと、勇吾くんが自作のCDを送ってきたことを、お母さんが話した。
2人はソファに座り、催促するような視線を私に注ぐ。
私は妙な緊張感とともに、そのCDをケースから外して、プレイヤーに滑り込ませた。
トラックは8曲。再生ボタンを押す。
中音域のピアノの音が、流れるように滑り出した。
不思議な音楽だった。細かい音符が連なって流れていくけれど、音楽はゆっくりとした拍子に聴こえる。同じ音型が繰り返されているようで、その横には景色の移り変わりを眺めるような変化があった。
「綺麗ねぇ……」お母さんが目を細めた。
高い音を使っているわけでもないのに、キラキラして、それでいて穏やかで、暖かかった。
この細かい音符は、水の表現では? 私はそう思った。それも、太い水の流れで、激流のような速さではない。
運河だ。
私は譜面をめくった。
お父さんとお姉ちゃんがこちらに目を向けたが、「これはダメ……」と譜面を立てて、一人で音符の書かれたページを覗く。
『1.運河沿いを歩く』
1曲目の冒頭にはそう題されていた。
私は、彼が何を音楽にしたのか、理解した。
トラックが次へ移る。
単音の半音階が、高音域へひゅるひゅると上がると、光の粒が飛び散るように、音符の群れがはじけた。少し遅れて、お腹に響くような低音が鳴る。
『2.岩山と花火』
次の曲は少し情熱的で、甘いメロディーなんだけど、たたみかけるような力強さがあった。と、そのメロディーが頂点に達する瞬間、高音域の鍵盤をまとめて叩くような不協和音が、どうしてこんな音がこの甘いメロディーと調和するのか不思議なくらい自然に、しかしはっきりとした存在感で鳴った。
顔から火が出そうだった。
お祭りの後、勇吾くんのお家で、私は彼に抱きついて、勇吾くんはピアノの鍵盤に手をついた。
彼なら、その時押した鍵盤を、全て覚えている。
『3.夜、もつれあって、鍵盤に手をつく』
彼は、夏休み、私と過ごした時間を、音楽にしているのだ。
喫茶店で私は彼と、剣道の話をした。
『4.ワッフルをつつきながら、戦う人たちの話を』
動物園に行った時、彼は動物たちの気持ちを考えていた。
『5.カンガルーの尻尾、ゾウの鼻、ワオキツネザルの兄弟』
水族館で水槽を見上げる彼の横顔は、そこから何か素敵なものが降ってくるのを待っているみたいだった。
『6.水槽から見上げる水面』
映画館で私たちは、手を繋いで映画を観た。それから、エンドロールでキスをした。
『7.コメディ』
『8.エンドロール』
譜面を閉じて、テーブルに置くと、私は両手で顔を覆った。
「やめてよ……」と呟く。
まるで、お別れの準備をしていたみたいじゃないか。
「寧々、あんた、パスポート作りに行きな」
お姉ちゃんが唐突にそう言った。
「え……」
「こんな男、逃すんじゃないよ」
言いたいことは分かる。ポーランドに、追いかけに行けということだ。
「でも……そんなお金、ない……」
「そんなの姉ちゃんが何とかしてやるっつーの。大体、ウチの家族がどれだけ心配してると思ってんのさ。一撃喰らわしてやんなきゃ気が済まないでしょうが。まあ、今ならまだ、勘弁してやんないでもないけどさ」
どの立場からどの目線で言うのかと疑問に思うようなお姉ちゃんの言葉に答えるように、私のスマホが鳴った。
メッセージアプリの通話。慌てて画面を見る。
勇吾くんだった。
「よう寧々! 悪い。携帯の充電が切れてさ。しかも、こっちじゃコンセントの形が違うだろ? 合うヤツ買いたかったんだけど、社長のジジィがまるで役に立たねえんだわ。
英語も通じるっちゃ通じるんだけど、細かいニュアンスが伝わらなくてよ。結局こっちの言葉覚えるまでプラグが手に入んなかった。マニアックすぎんだよ、ポーランド語なんて」
「もう!」と私は声を上げた。それ以上、何を言えばいいか分からなかった。「もう……」
「寧々、今、家か? 家族は周りにいるか?」
いる、と言うと、彼はみんなに聞こえるようにしてくれと言った。
通話をハンズフリーに切り替える。
「勇吾くん、大丈夫なの?」と最初に聞いたのは、お母さんだった。
「ああ、寧々さんのお母さん、こんばんは。と言っても、こっちは昼ですけど。すみません、連絡が取れなくて。俺は元気です」と、彼は私に言ったのと全く同じ事情を、少し丁寧に説明した。
「呉島さん、娘から聞きました。どうして急に?」とお父さんがたずねる。
「ポーランドで仕事が入りました。詳しく説明すると長くなりますが、コンクールの後で日本に帰ってこれるかどうか、俺は今、そういう勝負をしています」
私はそれだけで、納得してしまった。
彼は自分の運命と戦っている。彼を求めて大金が飛び交う、音楽の世界の濁流に抗って、自分の行きたい場所へ、自分の力で辿り着こうとしている。
私はどうする?