9-9.この星の自転に逆らって/呉島 勇吾
「真樹は何だって?」と聞いた。
「まあ、ブチ切れだよね」
社長の川久保 聡は愉快そうに笑った。
この日、川久保は真樹を俺の担当から外し、自らをそのポジションに据えた。社長とはいえ、流石にその采配は横暴だろうということが、社会というものをロクに知らない俺にも容易に想像できた。
俺は社長と取引をした。
俺は即日ワルシャワ入り、そこで予定されているいくつかのサロン・コンサートをこなす。
フレデリック・ショパン国際ピアノコンクールでファイナルまで進む。
ショパンとアルカンの録音を残し、版権を事務所に譲る。
その代わりに、事務所は真樹のピアニストとしての再起をサポートする。
俺の日本公演を組む。
そして、今後の活動方針について、一度白紙に戻した上で再度協議の場を設ける。
社長が俺にショパン・コンクールを受けさせたのは、日本における市場価値を上げることが最大の目的ではあったが、それは日本に活動の拠点を置くということではない。
社長は世界の各エリアを明確な役割で線引きしていた。
まずヨーロッパは『コンクール及び批評エリア』
ここでは『本場ヨーロッパの専門家が認めた』という箔付けのためのエリアで、逆にコンサート収入は期待しない。
本場だけにクラシック音楽が盛んではあるが、なまじ身近な分、1回の客単価は期待できないからだ。
アフリカは『普及・開拓エリア』
クラシック音楽の普及活動をイメージ戦略として行う他、急速な発展によって財貨を貯め込んだ新興の富裕層を狙う。
中東は『短期集中エリア』
西洋クラシック音楽が盛んとは言えないが、洒落にならない金持ちが正気を疑うような金を吐き出すのがこのエリアで、俺はすでに、このエリアに数人の固定客を持っている。
そして活動拠点の第1候補となっている中国を含めたアジア。
中国は言わずと知れたアジア最大の経済大国であると同時に、実はショパン国際ピアノコンクールへの応募者数が最も多く、ピアノ音楽への関心は高い。外交関係のいかんによっては日本人の俺が敵視される危険性があるというのがネックだが、一方で事務所の拠点である日本から物理的に距離が近く、物価が安いため利益を上げやすい。
それから第2候補、アメリカ。
市場のデカさは説明に及ばないが、何より国民性としてヴィルトゥオーゾとの親和性がズバ抜けて高い。ただし富裕層の集まるエリアは地価がべらぼうに高いため、中国と比較した時に同等以上の利益を叩けるかということが懸案事項となる。
このように見た時、日本国内というのは、当然、地理的な面での管理コストは最も低いが、客層という面では財布の紐がかなり固い部類に入る。
明日の飯にも困るような貧困層は少ないものの、飛び抜けた金持ちも多くはなく、ホールの使用料も高くて利益が取りづらい上、クラシック市場は常に後進的、「コンクールを獲って大々的に報道されたタイミングでだけ荒稼ぎして去る」というエリアだと社長は分析していた。
「いずれにしても、コンクールを獲らないことには絵に描いた餅だ。
ここを落とせば、君のピアノより審査員の耳を疑う人間は、ヨーロッパやアメリカにはいても日本にはいない」
「そうなったら、地元でピアノ教室でもやるさ。ピアノの先生くらいなら、ショパン・コンクールの予選通過だけでも十分な実績だろ。俺、院卒だし」
「笑えない冗談だ」
「そうか。渾身のギャグだったんだが」
離陸を告げる機内アナウンスが流れた。
「皆様、本日もトルコ航空199便、イスタンブール行きをご利用頂き誠に有難う御座います。
この便の機長はマリク・カイマク、私は客室を担当いたします北条 巴で御座います。
当機は間も無く出発いたします。シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。
イスタンブール空港までの飛行時間は12時間30分を予定しております。
ご利用の際は、お気軽に乗務員にお声がけください。
それでは、ごゆっくりおくつろぎください」
直行便が取れなかったせいで、イスタンブールを経由することになっていた。
現地時間の5時過ぎにイスタンブールに着いて、そこからさらに2時間近く待って乗り継ぎ、2時間半をかけてようやくワルシャワに着く。
唯一の救いは、その席がビジネスクラスで、脚を伸ばせることくらいだが、そうやって狭苦しい機内にやっと脚を伸ばして目をつむると、自分が死にかけのショパンみたいに思えて気が滅入った。
おそらく結核だったというショパンの病状は、25歳の頃にはすでに重く、彼が求婚したマリア・ヴォジンスカの両親は、健康状態を理由に婚約を破棄した。その後小説家のジョルジュ・サンドと付き合うようになってからも、療養のつもりで訪れたマヨルカ島でさらに死にかけ、しまいにはジョルジュ・サンドからも「3番目の子ども」だとか「愛しい小さな死人」だとか言われるようになる。
俺がショパンに共感できない根本的な要因は、この弱々しさだろうと思えた。
ピアニストとして名声を得ていたにも関わらず、大きなホールで演奏することを嫌い、人生の半分くらいは死にかけで、めそめそした音楽も少なくない。
だが、晩年まで曲を書き続けた。
俺もきっと、自分の身体が、自分の意思を全く受け付けなくなるまでは、何らかの形で音符と格闘し続けるのだろうな、と、その点だけはうなずけた。
先のことは、まだ何も決まっていない。
どれだけイキがっても、俺は所詮15歳の子どもで、いくらピアノが弾けたところでそれを金に換える事務所がなければ早晩路頭に迷う。
今後の活動方針についても、事務所が首を縦に振らなければ、話はそこでお終いなのだ。
結局、俺が俺の勝手で振る舞える場所などというのは、鍵盤の上くらいのものだ。
俺は機内の低い天井に向かって、深いため息をついた。
困ったことに、眠気の兆してくる気配は一向にない。
座席には俺のような乗客の退屈を紛らわせるためのモニターがあって、動画を観たり、ちょっとしたゲームが出来るようになっていたが、そういうものに手をつける気分にはならなかった。
手荷物置き場の鞄から五線紙を引っ張り出して、俺はそこに、絵を描くように音符を綴っていった。
呉島 勇吾になることを母親から強要された末自らの命を断った、顔も知らない女のことや、その女を想って俺に戦いを挑んだ天野 ミゲル、屋上で風に吹かれながら物思いにふける阿久津や、両親のいさかいを尻目に自分の夢と格闘する笹森、バスケでブチのめした相手の恨みを買いながら仲間に精密なパスを出す酒井、深い敬意と煮えたぎるような闘志で戦う剣道部の人たち、中でも、俺のことを好きだと言った時のマユ、俺を恨みながら、しかし優しく抱きしめた真樹、そして、寧々……。
そういう人たちのことを想った。
飛行機は東から西へ、地球の自転に逆らって進んで行く。少しずつ、時間の流れを遡るように。夜は明けそうにない。
✳︎
飛行機を乗り継ぐ時はいつもそうだが、どういうわけか12時間半とかいう膨大な時間を与えられるとちっとも眠れないクセに、空港に着いて乗り継ぎを待つ半端な時間が眠たくて仕方なかった。
空港の照明はよく磨かれた床に反射して、眠りを妨げ続ける拷問みたいに明るい。
「勇吾、よく眠れた?」
社長はロビーの椅子に座るなりそう言った。この男はどういうワケか、かなり高い確率で、まずは「No」と答えるべき質問をする。
「ダメだな。次で少し寝るよ」
俺はそう答えたが、また飛行機が動き出したら眠れなくなるような気がして憂鬱だった。
「こうしていると、昔を思い出すね」
『長年連れ添った』という含みを持つようなその言葉は若干気色が悪かったが、困ったことに否定できなかった。
俺が7歳のころだったろう。それがどこだったのか覚えていないというよりは、そもそも自分がどこにいるのか理解していなかったし、さほど興味もなかった。
ただ、薄暗いサロンでピアノを弾いた後のことで、その日から俺を連れ回すのはこの男になったのだということだけを理解した。
難しいことは未だに分かっていないが、前の事務所はビザか何かの手続きを適法にしていなかったとか、他にも色々と問題を抱えていたらしい。
この川久保という男は俺に向かって、「君を、本当のピアニストにしてあげる」と言った。
それだけははっきり覚えている。
「思えば、アンタのところで世話になって以来、仕事の質は良くなったよ。ババァに撫で回されることも減った。無くなりはしなかったが」
「そういう連中を出来るだけ排除しようとはしたからね。君は妙に、女を引き寄せるフェロモンを持ってた。幼い子どもの頃からね」
「アイツらは俺のピアノをアクセサリーの1つくらいにしか思っちゃいなかった。連中にとってはピアノを聴くよりケツを撫でることの方が重要だった」
「僕は、今君がまともに恋愛していることに驚いてるよ。そういうことに嫌悪感を催してもおかしくないと思っていた。君が前いた事務所は摘発されて今はもう存在しないが、そうでなかったとしたら、今頃君は男娼として社交界を渡り歩いていたかもしれない」
「クソ忌々しいぜ」
「もしかして、君にとって恋愛というのは、そういう記憶へのレジスタンスでもあるんじゃない?」
「んなワケあるか。関係ねえよ、あんな連中」
「そうだとしたら、君が私の危惧したようなトラウマを持たずに済んだのも、その事務所やご婦人方に、耳かき一杯分程度の良識があったからだろうね」
俺にはそれをどうとらえるべきか判然としなかった。
ただ、この会話の陰に、薄気味悪い何者かの気配を感じて、舌打ちをした。
ロビーにアナウンスが流れた。
──「Check-in for PAL Flight 175 to Warsaw Chopin Airport is open now.
(ポーランド・エアライン175便、ワルシャワ・ショパン空港行きは、ただ今より搭乗手続きを開始いたします)」──
後で気付いたが、スマホの充電が切れていた。