9-8.音楽家という生き物/篠崎 寧々
白のレクサスは、国道を快調な速度で駆け抜けて行った。
その後部座席から、「あの、どこへ?」と私はたずねた。
「どうしましょうか。一緒にお食事という仲でもない」
そう言いながらも、車は迷いなくどこかを目指していた。
ハンドルを握る彼女の指は、独立した感性と魂を持った思慮深い生き物のようにゆっくりと動いた。私にはそれが、架空の鍵盤を叩いているのだと分かった。
家の引き出しから柴田さんの名刺を抜き取って彼女にメールを入れた時、私はそれが無視されることを想定して次の手を考えていたが、意外にも彼女はすぐに返信を寄越した。
勇吾くんの今後について、柴田さんと話す機会を作るとしたら、彼が天野 ミゲルと対決するこの日をおいて他にはない。私にはそういう予感があった。
彼女はフロントガラスの向こう側を睨むように見通したまま、こちらには見向きもしない。
「もしかすると、あなたは今日、私と会うことを何か重要な勝負時というふうに位置付けているのかもしれませんが、もう、あなたと私の間に、それほど話し合うべきことはありません」
「それは……」と私が反論しかけたのを、彼女はさえぎった。
「もちろん、あなたにとってはそうでない。そう仰りたいのは分かります。
でもね、篠崎さん。物語は幕引きへ向かって、あらかたの段取りを終えた。
あとは、物事が収まるべきところへ収まるのを、ただ見守るだけです。そういうところまで、もう来てしまった」
私はその言葉を咀嚼して、それから言った。
「柴田さん。私は、あなたと腹を割って話したいんです。抽象的な表現や詩的な言い回しでお茶を濁すのはやめましょうよ」
柴田さんは微笑んだ。その笑顔には、今までみたいに怒りを内包してもいなかったし、侮りを含んでもいなかった。
「音楽とは何か。芸術とは何か。美とは? 感動とは? 心とは? そして一体、人間とは何なのか。
音楽家というのは突き詰めれば、そういう謎に、聴覚という切り口から首を突っ込んだ者たちのことです。
そして悲劇的なことに、全くもって悲劇的としか言いようのないことに、そういう問いにはどうやら答えのないことが、皆薄々分かっている。
そうと分かっていながらそれに向かって突き進んで行く者たち、そういう狂人の群れを、音楽家というのです。
『呉島 勇吾』というのは、その中でも特別。最大限好意的に表現するとしても、妖精みたいなものですよ」
車は国道から一本脇道に逸れると、登り坂の途中にある駐車場に入った。どうやら、そこは広い公園みたいだった。
車が停まるタイミングで、私は彼女に反論した。
「私はそうは思わない。勇吾くんは、生身の人間です。甘いものが好きで、人の痛みが分かる、繊細な、傷つきやすい、でも優しい15歳の男の子です。
私は、彼が行きたいところに行き、やりたいことができるように、周りの人たちに少しだけ優しさを分けて欲しいだけなんです」
柴田さんは私の言葉を聞くと、声を出して笑ったが、私の顔に反感の色を読みとったらしく、「いや、失礼」と詫びた。
「でもね、篠崎さん。あなたの言うことだって、随分抽象的じゃありませんか」
「そうですね。だからこそ、具体的な話がしたいんです。彼は、コンクールが終わったら、ここへ帰って来ると言いました。彼にその意思があるなら、それは尊重されるべきだと私は思う。私が聞きたいのは、彼のそういう権利は守られるのかということです」
「物事は、すでに私の手を離れた。私は今や、それを決める立場にない」
「つまりあなたは、もう勇吾くんのマネージャーではない?」
思わず眉間にシワを寄せた。
「降りて、少し歩きましょう」彼女はそう言うと、ドアを開けて運転席を降りた。
私もそれに促されるように、車を降りる。
柴田さんの後について、駐車場を抜け、公園へ入った。大きな木で囲まれた遊歩道を、彼女は心許ない灯りを頼りに迷いなく進んでいく。
「勇吾くんの担当を外れたから、あなたは私と会うことを了承したんですか?」
私と会って話すことが、もう物事を左右しないから。だとしたら、この人たちは卑怯だと思った。
「いえ、どの道、何らかの形でお会いすることにはなったでしょう。あなたの呉島に対する影響の強さは、我々にとって驚異的でした。良い意味でも悪い意味でも」
「彼が日本の高校へ通わされたのは、色んな感情を経験させるためだった。それを、ピアノに反映させるために」
私にはそれが、とてもおぞましいことに思えた。
「人間の弾くものには揺らぎがある。二つと同じものはないその揺らぎこそが、百年、二百年前に書かれた音楽に、今なお価値を与え続けている。
我々は何も、彼を感情のないロボットだと思っているわけではありません。
ですが、ひどく偏っていた。その時代の演奏を、あなたはまだ聴いておられないでしょう。ゾッとするほど冷たくて、また時に触れがたいほど熱い。そして、怖気が走るほど美しい」
「あなたの言い草は、まるで勇吾くんにそのままでいて欲しかったみたいに聞こえます」
公園を奥へと進むと、小さな川が流れていた。
流れていく水の音を聞くと、肌寒さを感じて身震いした。
「ええ。私は。でもウチの社長は違いました。呉島に、多様な感情を学ばせることで、彼のピアノはさらに上の次元へ行くと考えた。
篠崎さん、今日の彼の演奏、いかがでした?」
柴田さんはその時初めて足を止め、私の顔を真っ直ぐに見た。
「涙が、止まりませんでした。彼の想いが込められているというよりは、私自身の心と共鳴するみたいだった」私は率直に感想を言った。
「私も、客席の反応を見ていました。あそこまでのものは、お目にかかったことがない。
大袈裟に言えば、戦争だって止められるんじゃないかと思いますよ。
ちょっと感受性の高い人が1人や2人、目尻を拭うのなんて珍しい話じゃありません。でも、あの会場の空気は明らかに異様だった。
半分くらいは天野と呉島のいざこざを、冷やかしで眺めに来たような連中です。そういう人たちが涙する。
分かるでしょ? もう、高校生の恋愛と天秤にかけられるレベルの存在ではない」
「だから、勇吾くんから手を引けと?」
「皆さん仰るクラシックの音楽家は、自分たちの音楽をクラシックとは呼びません。その系譜に連なる作品群の形式的多様性・複雑性は、今日巷に溢れるポップミュージックがいる地点を、百年以上前に超えているからです。
そして呉島 勇吾は奏者としての『人間の進化』という形で、音楽の新しい地平を切り拓く、音楽家の新たな可能性です」
結局、この人の言いたいことはそれか、と思うと、私の心の中に、嘲りに近い怒りが込み上げた。
「案外、お利口さんなんですね」
私はそう言った。もう、やってやれ! という気持ちだった。
「あぁ?」
柴田さんは私の突然の挑発に顔をしかめる。
「だって、そうじゃありませんか。好きなんでしょう? 勇吾くんのこと。
私はそうです。彼のことが、好きで好きでたまらない。だからそばにいたい。それだけなんですよ。そしてきっと、彼もそうだと自負してる」
「テメェの物差しで、アイツを測るんじゃねえ。アタシはずっと、そういう話をしてんだよ」
柴田さんは強い口調でそう吐き捨ててから、「失礼しました。取り乱しまして」と詫びた。
「いえ、薄々、そういう方なんじゃないかと思っていました。
でもね、柴田さん。新しい音楽? 人間の進化? 関係ないね。私は、彼が好き。
私はね、彼の背中に翼があって、遠く音楽の世界へ羽ばたいたまま、もう戻って来ないのだとしたら、その羽根を捥いで私のそばに置くつもりなんですよ。
その代わり、たくさん甘やかして幸せに暮らすの。だって、好きなんだもん」
「本性現しやがったな、イカれ女」
柴田さんは嘲るように笑った。
「お互い様じゃありませんか。彼の音楽に対する執着を、これ幸いと利用しながら、これが足りないと思えばまるでお漬物でも漬けるみたいに日本の学校に放り込んで、程よく漬かれば本人の意思なんか関係なく、ワルシャワだのどこだの。正気でいるつもりですか?」
「テメェに何が分かるんだよ。アイツは音楽家で、ピアニストだ。一人の人間である前にな」
負けじと柴田さんを睨む。
「ピアニストは人間でしょ? それがどんな天才だろうと。誰かが、そういう当たり前のことを、彼に言わなきゃいけなかった。
あなた達がそれをしてくれなかったことに、私は怒っているんです。
勇吾くんは、『もう登れそうもねえ奴らの夢を刈り取って、俺が“上”まで連れて行く』って、そう言いました。その中にはあなたも含まれていたんじゃないですか?
彼は音楽家で、人間のことを想っていた。そういう人が、人間じゃなくて一体何だっていうの?」
下まぶたに涙が溜まって、視界の中に街灯の落とす光が複雑な線を描いた。
柴田さんは、少しの間、考え込むように目を閉じた。小川の流れが、寒々しく響いた。
「問題は金だ」
「お金?」
私はその唐突さに首をかしげた。
「音楽家が芸術的感銘さえあれば、あとは霞でも食って生きていけると思ってんなら大間違いだぜ」
彼女は近くにあった小石を蹴る。
「いえ、そこまでは……」
話の急な展開に追いつけず、私は口ごもった。
「お前が危惧している通り、コンクールの後、勇吾が日本に戻って来る可能性は低い。単純な話だ。日本じゃ儲からねえからさ。
勇吾をここに引き留めたいなら、大人の理屈を持ってきな。金という尺度で重さと大きさを測れる大人の理屈を」
「どうして急に、そんな話を?」
「結局、本質は『感動』だよ」
「え?」私は聞き返した。
しかし、彼女はそれには答えなかった。
「ウチのジジィが泡ぁ吹くプランを持ってこい。多少の手伝いはしてやる」
その夜、勇吾くんから「ワルシャワに行ってくる」とメッセージがあった。
全く、誰か常識というものを具備した人はいないものかと私は唸った。