1-8.コーヒーとパンケーキ/篠崎 寧々
自分より、10センチは背が低い男の子に手を引かれて、河川敷の階段をのぼる。
耳の先が熱い。
「あの……手をつないでるとこ、誰かに見られたら、その……誤解されちゃう」と、かろうじて言う。
「あ? 構ってられっかよ、そんなもん……」と言ってから、呉島くんは少し考えるような素振りを見せて、「いや、なんか、緊張してきたな。分かった。一旦はなそう」と、握った手をはなした。
近くの駅から電車に乗って、街まで出る。
私は、竹刀袋を手持ち無沙汰に揺らした。未練がましくそんなものを持ち歩いていることが、余計に後ろめたかった。
電車の中で、呉島くんはスマホを見ながら顔をしかめた。
「どうしたの?」と私が聞くと、呉島くんは、少しためらうようにして、首を横に振った。
「いや、辛気くせえ話になる。やめようぜ。それより、店だ。目ぇ付けてるところがあるんだよ」
呉島くんは、そう言うと、またスマホの画面を操作して、1軒のお店のページを開いて見せてくれた。山のようにクリームの乗ったパンケーキだ。
「甘いもの、好きなの?」
「ああ。俺は筋金入りの甘党だ。日本はいいな。コンビニで売ってるようなスイーツが普通に旨い」
「意外……辛いものが好きそうに見える」
「そうか? 家でピアノを弾く時は、いつもシュークリームとか、エクレアを食ってる」
私は少し笑ってから、そのことに驚いた。ついさっきまで、そんな気分じゃなかったはずだ。
── 「ネネ、あんた、ウザいわ」──
一昨日、部活の互角稽古で、マユちゃんとあたった時、鍔迫り合いになった瞬間、彼女は私にそう言った。
マユちゃんは、私が強い選手だと誤解している。だから、まるで彼女に歯が立たない私が、手を抜いているように感じるのだ。
違う、そうじゃない。私は強くなんかないんだ。
面を着けて稽古に出られるようになったのだって、呉島くんと出会って、彼の言葉にほんの少しの勇気をもらってからのことだ。
本当は強いくせに、実力を隠してるんじゃない。ただ、マユちゃんが強くて、私が弱いだけなんだ。
それなのに、なぜか、その言葉が言えなかった。言う機会がなかったわけではないと思う。
彼女はあれ以来、私を無視したけれど、それでも呼び止めて話をすることくらいは出来たはずだった。むしろ、その時々で私の視界に入る彼女は、その機会を待っていてくれたようにさえ思う。
けれど、私はそうはしなかった。私が、ただ臆病で、弱いからだ。
✳︎
夕暮れの街にはたくさんの人が行き交って、今頃、本当は学校の格技場で竹刀を振っているはずの私を隠してくれた。
「ここだ!」と呉島くんは声をあげる。
「でも、本当にいいの?」と私はたずねた。パンケーキって、そんなに安いものじゃない。同級生におごってもらうのは気が引ける。
「俺がお前をなぐさめるために、おごってやろうとしてるなんて思ってんなら、ソイツはとんだ誤解だぜ。俺はな、ただパーッとやりてえ気分だった。それも一人じゃつまらねえから、たまたまそこにいたお前を誘っただけだ」
彼がそう言うと、私はなんだか、かえって複雑な気持ちになった。
あの時たまたまそこにいたのが、マユちゃんだったら、彼はマユちゃんを誘ったのだろうか。だとしたら、ちょっと思わせぶり過ぎやしませんかねぇ。
しかし、お店に入り、メニューの表紙にでかでかと載ったパンケーキの写真を見ると、そういう反感もどこかへ吹っ飛んでしまった。
そんなふうに、私を都合のいい女みたいに言うなら、食べちゃうもんね。
私はもう、そこからは迷わずバナナホイップパンケーキのチョコソース添えと、オレンジジュースを頼んだ。呉島くんは、シチリア岩塩の塩キャラメルパンケーキとコーヒーを注文する。
どういうわけか、少し敗北感があって私はうなった。
「何?」と呉島くんは私の顔をうかがう。
「なんか、チョイスがオシャレ」
「俺もチョコバナナと迷ったけど、キャラメルも熱いだろ。シェアしようぜ」と呉島くんは、気取った調子もなくそう言う。「ちなみに、コーヒーは甘いものを食ってる時しか飲めねえ」
私の中に、彼に対しての好意──いや、別に変な意味じゃなく──があるとすれば、それは彼のこういう、大人ぶったり、上品ぶったりしないところなのかもしれない。
世界的な天才ピアニストと聞いた時、私はもっと、お高くとまった、取っつきにくいタイプ(彼は別の意味で取っ付きにくくはあるけれど)を想像していた。
だけど、パンケーキのメニューを見ながらはしゃぐ彼は、乱暴だけど、甘いものが好きで、もしかするとちょっと傷付きやすい、普通の高校生だ。
私たちは、パンケーキが運ばれて来ると、大いにはしゃいで、お互いにそれを分け合いながら、美味い、美味しいと言い合いながら、あっという間に平らげてしまった。
「まさか、これで終わりじゃねえだろうな」と呉島くんが挑発してくる。
乗ってやろうじゃないの。「もちろん。覚悟は出来てる?」
「上等だぜ。次は何だ?」
私は迷わずこう言う。「パフェ!」
私の身体が大きいのは、相手の打突を上から割って、面打ちを浴びせるためだと思っていた。けれど、それは間違いだったらしい。
甘いものを、たくさん食べるためだ。