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9-7.シャルル・ヴァランタン・アルカン/呉島 勇吾

「なんか、全然違うんだけど、バッハにも近いような……」ある時、寧々はアルカンについてそう言った。


 俺は技巧的ピアニスト(ヴィルトゥオーゾ)だ。録音を残すなら、その要素を外すことはできない。そう考えて寧々の誕生日に渡したCDには、アルカンを2曲入れたが、多くのピアニストにとって「演奏不可能なほど難しい」とされるアルカンの音楽の中に、最近までクラシックなどには興味もなかった寧々が、バッハの影を見出すとは考えてもいなかった。


 生まれも育ちもフランスのパリでありながら、敬虔なユダヤ教徒であったアルカンは、キリスト教徒のごった返すパリの社会で、全く違う戒律のもとに生活する異物だったことだろう。


 ピアノだけはべらぼうに上手い奇妙な東洋人のガキとしてヨーロッパにいた俺にとって、アルカンというのは共感できる人物だった。


 そういうある意味での異物感は、おそらくアルカンの奇妙で独特な感性を培った。

 ショパンが美しいメロディと揺蕩(たゆた)うような和声で、リストが超絶技巧の仰々しさと華やかさで聴衆を魅了していた時、その時代の作曲家やヴィルトゥオーゾたちが、時代の先端で波を作り出していた時、社交の場にもほとんど姿を現さなかったアルカンは、そうしたものを一歩引いて遠巻きに眺めながら、バッハやベートーヴェンのことを考えていた。


 アルカンはそうした古い音楽から、完全に自由だった。多くの芸術家が、新しい時代、新しい芸術を作り出すことに心を囚われている中、一人、古い様式を踏まえることも、逸脱することも出来たという意味において。


 寧々はそういうアルカンの音楽の中に、バッハの響きを聴き取った。


 アルカンはバッハのように対位法(2つ以上の旋律を対等に独立性を持つように作曲する技法)が上手かったというわけではない。しかし、その音楽的表現を実現する手段として、あらん限りのインテリジェンスを注ぎ込もうとした。


 そうした態度は時に、音楽の中に幾何学模様を作り出す。おそらく寧々はそれを聴き取ったのだ。


 彼女のそういう鋭敏な神経、感じやすい心は、俺を何度も救ってくれた。


 俺はこれからも戦い続けるし、俺のピアノは何人ものピアノ弾きたちから、その夢を刈り取るだろう。


 だが俺の音楽は、いつも寧々の、防具に擦れて少し赤くなった形のいい耳に向け続ける。そして、その途中にいる誰かを慰め、励ましたなら、それ以上に俺が望むべきことなどあるだろうか。


 長い長い(曲全体の4割にも及ぶ)終結部(コーダ)に入り、狂ったように速く、しかし明瞭な音楽は、栄光に満ちた響きで狭い音楽室に響き渡っていった。


 文字通り「火のような(focoso)」凄まじい熱量を振りまきながらクライマックスへ向かうと、もう待ちきれないとばかりに歓声が沸き起こった。


 俺はそれをさらに上からねじ伏せるような音圧で、ピアノの弦を鳴らす。


 最後の和音を弾ききって腕を跳ね上げた瞬間に、割れるような拍手と喝采に混じって、窓の外から叫びが上がった。

Bravo(ブラーヴォ)! Yugo(ユーゴ)!」


 完璧なイタリア語の発音だった。阿久津だ。アイツはまた、屋上の特等席で、穏やかな風に吹かれながらすまし顔で俺のピアノを聴いていたのだろう。


 椅子から立ち上がって客席を向くと、そこに座っていた一人が立ち上がった。酒井だ。隣には笹森がいる。それにならって、他の客も次々に立ち上がった。


 その向こうに、一際背の高い寧々の顔が見えた。押し合うように並んだ人垣の間から、マユの顔ものぞいている。


 自然と笑みがこぼれた。


 アルカン、俺はもう、一人じゃない。


  ✳︎


 動画の配信を終えると、投票の期限まで、天野と俺は客席に来てくれた人たちのためだけに、交互にピアノを弾いた。


 アンケートの票は棒グラフとしてリアルタイムで表示され、演奏が終わって間もなく、ほとんど決定的なまでに差は開いていた。


 天野はポップスや映画音楽をピアノに編曲したものを弾いた。

 俺と競うような技巧を天野は持ってはいなかったが、彼の演奏からは、原曲に対する確かな敬意や愛着を聴きとることが出来た。


 俺はクラシックなら何でも弾くと言い、リクエストを募ると、客席から顔を真っ赤にして「ハンガリー狂詩曲!」と声をあげたのは寧々だった。


 彼女の家族と一緒に聴いてもらった、リストの2番のことだ。


 喫茶店で注文するだけでも顔を赤くするほど内気で恥ずかしがり屋な彼女が、大勢の前で声を張りあげるほどそれを気に入ってくれたことが嬉しかった。


「今日のお客さんはセンスがいい」


 俺が笑うと、寧々は恥ずかしそうに、「ノリノリでお願いします」と言った。


 俺は注文通り、鍵盤の上で暴れに暴れまくった。

 装飾楽句(カデンツァ)は音符の数を倍に増やし、押した鍵盤が戻ってくる速さのギリギリ、ピアノという楽器の機能的限界まで速度を上げ、即興を加えまくった。


 終結部(コーダ)に入る前のフェルマータで手を掲げて客席を煽ると、観客は大いに沸いた。これはクソったれの故郷で覚えた酒場のやり方だった。


 俺はあくまでコンサート・ピアニストだ。こういうやり方を覚えたのは、俺にとって大きな収穫だった。


 ふと左に振った視界に、スクリーンが映った。得票を示す棒グラフは一方が伸びきって、もう一方を消え入りそうなほど押し潰している。

 次々に書き込まれるコメントが、滝のように流れていって、中にはロシア語やアラビア語、ピンイン、ハングル、簡体字、様々な言語が『呉島(Kureshima) 勇吾(Yugo)』を示していた。


 客席から「何か、綺麗な音楽を」とリクエストがあって、俺はエリック・サティの『3つのジムノペディ』から第1番「Lent(ゆっくりと) et douloureux(苦しみをもって)」を弾いた。装飾を廃した簡素な長調の響きに哀愁を表現するような音楽だ。


 俺は難しい曲を派手に弾くことでしか客の心を動かせないピアノ弾きではない。

 優しい人たちとの出会いが、俺をそうした。


 最後の静かな和音の響きの中に、聴衆のため息が混じって、不思議な音楽的空間を創り出した。


 俺は天井を見上げてその響きの中に、しばしの間耳を遊ばせ、鍵盤から指を、ペダルから足を、そっと離した。


 聴衆は、とても静かに拍手をした。小さく、脆く、尊いものを、決して傷つけぬように。


  ✳︎


 音楽準備室を抜けて廊下に出ると、天野の周りに人だかりが出来ていた。


 彼は泣いていて、多くの生徒がそれを慰めた。天野は天野なりのやり方で、人の心を動かしたのだと思った。


 天野の周りに集まっていた連中が、俺の姿をみとめて道を開けた。


 俺は天野に歩み寄って、肩に手を置いた。

「お前はこの俺から、たった1時間で80票を取った。あの動画を観ていた80人にとって、お前は俺より上だった」


「なあ呉島、俺はどうすりゃ良かった……?」

 天野はやり場のない憎しみを、食い殺すように呟いた。


「あの選曲は悪手だった。ショパンを弾くにしても、俺がお前程度の腕なら、もっと簡単で聴き映えのする『革命』のエチュードと、対比の効く長調のノクターンのどれかを弾く。

 お前は何十万ってファンを自分のやり方で集めながら、俺との勝負に目が眩んでそのやり方を曲げた。お前は、俺や、音楽とかいう得体の知れねえもんじゃなく、お前のファンに真摯であるべきだった」


「そういうことじゃねえんだよ……!」


「知るかよ。お前の好きだった女は、俺の地獄には見当たらねえ。そこは戦うピアニストの墓場だ。優しいピアノ弾きの来る所じゃねえ。その女の夢がどこかに漂っているなら、そいつはお前が背負え。お前なりのやり方で」


 そして、そのずっと先で、こちらを見つめている真樹を睨んだ。

 天野のそばを離れ、真樹の腕を掴む。


 廊下を奥に抜けて人のいない教室に引っ張り込み、壁に押しつけて手をついた。

「ヤダ、積極的」

 真樹がからかうように笑う。


「うるせえ。たかがピアノ弾くだけの動画に、たった1時間であれだけの票数が集まるのは異常だ。てめぇら、何をやりやがった」と詰め寄る。


 真樹は口の端を吊り上げた。

「なに、天野のやり方に少し工夫を加えただけさ。共演が決まった時点で、SNSとメールで世界中に発信した。お前の客にはSNS上でも強い影響力を持つセレブがゴマンといる。そういう連中がアタシらに代わって宣伝してくれたワケだ」


「てめぇら、ハナからこのつもりでミゲルを利用したのか」


「あのジジィが生っちょろくねえことくらい、お前も知ってたろ」


「やり方が気に入らねえんだよ」


「審査員が増えて順当に票が入っただけだ」


「俺はあえて(・・・)アイツの土俵で戦った。平手の勝負じゃ俺に敵うワケねえのはアイツも分かってたからだ。お互い納得した駒落ちの勝負に、横から飛車角突っ込んでくんじゃねえよ」


「勇吾、これはな、ビジネスなんだよ」


「アンタ、ジジィのやり方に納得してねえんじゃねえのかよ」


「アタシはな、お前と違ってガキじゃねえ。『大人になる』ってのはな、『金のためなら何でもやる』ってことさ」


「そうかよ」

 眉間に力を込めて目を閉じた後、舌打ちして教室を出ようとする俺の背中を、真樹は抱きしめた。


「勇吾、一度真剣に考えてみてよ。アンタの隣にいられる女ってのはどういうヤツだ?」


 俺は真樹の手を振り払うと、自分の鞄から1冊の譜面を取り出して、押し付けるように渡した。


 そして、足早に廊下を抜けて、校門を出た。


 そのすぐそばには、呆れるほど軽薄な、赤のアルファロメオが停まっていた。

 左ハンドルの運転席から、社長が顔を出す。


「別れの挨拶は済んだかね?」


「別に」と答えてから付け加えた。「時間を割くと離れがたくなる」


 俺はその後部座席に乗り込んだ。


「まさか、君の口からそんなセリフが聞けるとは」

 社長はルームミラー越しに俺の目を覗き込んだ。


「うるせえな。どこにでも連れて行け」


 エンジンが回る。



────【アンケート】────

 どちらの演奏がお好みでしたか?

 Which of these performance would you prefer?


・天野 ミゲル Amano Miguel

               82 

・呉島 勇吾  Kureshima Yugo

            834,653


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― 新着の感想 ―
[良い点] ミゲルとのこの勝負……勇吾の演奏シーンで彼が高校に入って寧々たちと出会ったことで得たもの、吸収したものを、しっかりと消化して自分のものにしたんだなと感じました。 音楽には疎かった剣道女子の…
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