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9-6.Amen(かくあれかし)/篠崎 寧々

 勇吾くんがステージの奥から現れると、会場は息を飲んだ。


 ステージ奥のスクリーンに「キタ!」というコメントが映る。それを呼び水にたくさんのコメントが矢継ぎ早に流れて、本当に目で追うことが出来なかった。


 その場の光という光を全て吸い込むような深い黒のイヴニングコートに、白のベスト、ウィングカラーのシャツに蝶ネクタイを締めて、胸には目の覚めるように紅いポケットチーフを挟んでいる。


 後ろに撫でつけられた、艶のある真っ黒な髪に、私は釘付けになった。まだ私は、彼の全てを見てきたわけではなかった。これが、本気で戦いに臨む彼の姿なのだ。


 勇吾くんは、何の気負いもなくピアノの前まで進むと、客席に向かって礼をした。客席から拍手を受けて、向きを変え、ピアノに座る。


 そういう一連の動作には、一切の淀みがなかった。


 彼がステージに一歩足を踏み入れた時、もう音楽は始まっていたのだと思った。


 彼が鍵盤に指を落とした時、それがまるで古いレコードから流れるような音だったことにまず驚いた。


 天野 ミゲルが弾いたのと同じ楽器だとは思えなかった。


 どちらが上手いとか下手とかいうことを抜きにして、鍵盤を叩くと内部のアクションが連動してハンマーが弦を叩くという、いわば工業的に組み上がった楽器の音が、弾き方ひとつで変わるということ自体、単純に不思議だった。


 そして、次に驚いたのが、彼の選んだ曲が、これかという点だ。


 彼は超絶技巧のヴィルトゥオーゾだ。

 その彼が、私に聴かせたような個人的な場ではなく、この勝負の場に、ゆっくりとした、どこか懐かしいような、物悲しいような、それでいて優しく、切ない音楽を持ってきた。これは多少なり呉島 勇吾という人を知っている者にとっては、信じられないことだった。


 スクリーンの上を雪崩のように滑っていたコメントが、動きを止めた。


『亡き王女のためのパヴァーヌ』


 その有名な音楽は、こうして改めて聴くととてもシンプルだった。美しいメロディーに優しい伴奏、そして時々、曖昧で虚ろな響きがした。


 私には、それが(とむら)いのように聴こえた。

 彼の才能に飲まれていったピアニストたちや、あるいは彼自身の過去への弔いに。


 それはこの曲のタイトルである『亡き王女』という言葉に意識が引っ張られているのかもしれないし、私がなまじ彼の境遇を知っているからかもしれない。


 しかし、隣で私と同じように立ち見をしていた誰かのお母さんが、目尻をハンカチで押さえるのを見ると、私は思い直した。


 きっと、誰の心にも、弔うべき何かがあるのだ。

 それは身近な人の死に限らず、例えば夢であったり、思い出だったり。


 勇吾くんは、自分の気持ちを音楽に込めたのではないと思った。

 聴いている人たちの隣に寄り添い、その音楽の中に、そういう人たちの、気持ちの置き場所を用意したのだ。


 最初と同じメロディーが、前より高い音で繰り返された時、繊細な演奏を見守るように止まっていたスクリーンにコメントが表示された。


 「なんか、音変わってない?」


 耳を澄ました。確かに、少しずつ、音がクリアになっている。


 「うわ、マジだ」

 「どうやってんの?」


 またコメント欄が動き出す。


 私は彼の言葉を思い出した。

──「もう登れそうもねえ奴らの夢を刈り取って、俺が“上”まで連れて行く」──


 そのことを象徴するように、同じメロディーがまた高い所で繰り返される。


 その音は、ガラス細工のように透明で、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。


 セピア色の写真だとかアンティークだとかいったものを眺めているような、暖かみと懐かしさを感じさせる音色で始まった音楽は、時間をかけてゆっくりと、暖かさを失いながら、代わりに透明感を増していった。


 高く、遠く、空の向こうへ昇っていくようだった。

 人の手の届かない、《いと高きところ》へ……。


 それは、【ピアノの悪魔】と呼ばれた彼の、祈りにも近い音楽だった。


──「あなたの胸に重く沈んでいるやり切れない想いが、いつか楽園へと導かれますように」──


 私も、そうあればいいと祈った。


 触れ難いほど神聖な、最後の和音の響きの中に、客席からすすり泣きの声が混じった。それも、1人や2人ではない。


 そして、私の目からも、ボロボロと大粒の涙がこぼれていることに、私は勇吾くんが立ち上がって礼をする時初めて気付いた。


 ブレザーのポケットから、ポケットティッシュを引っ張り出して、涙を拭い、鼻をかんだ。


 試合であれだけ汗をかいて、自分の身体のどこにこれだけの水分が残っていたのかと不思議に思うほど、涙と鼻水が出て止まらなかった。


 拍手の音は、最初まばらに始まり、やがて、100人にも満たない客席とは思えないほどの大音量で、押し寄せるように鳴り響いた。


 音楽室にあるだけの椅子を並べて、運良く座ることの出来た前の方のお客さんの一人が立ち上がると、それにならうように、周りの人も次々と立ち上がった。


 勇吾くんは困ったように苦笑いした。

「いや、もう1曲弾くので……」


 彼がそう言うと、椅子から立ち上がった人たちが慌てて座るのと同時に会場に笑いが起こって、勇吾くんの後ろのスクリーンにも、「W」だとか「草」だとかいった、笑いを示すスラングが並んだ。


 それから、少し迷うように視線を動かした後で、口を開いた。

「お手元にプログラムがないと聞いてるので、曲目だけ。

 シャルル・ヴァランタン・アルカン『スケルツォ・フォコーソ』」


 その作曲家の名前を聞いた時、私はハッとした。

 彼が私にくれたCDの中に2曲、その作曲家の曲が入っていたからだ。


『鉄道』と『風の如く』

 どちらも、ピアノという楽器の性能と、人間の生理的機能の限界に挑戦するような、とんでもない速度の音楽だった。


 それまで聞いたこともない作曲家で、勇吾くんにたずねたことがある。


 当時最高のピアニストと呼ばれたフランツ・リストをして、「私の知る限り、誰よりも優れたピアノ技巧を有している」と言わしめたヴィルトゥオーゾ・ピアニストでありながら、人嫌いでこもりがち、そして1830年代をピークにヴィルトゥオーゾ・ブームが去ったこともあって、彼の作品は時代時代のヴィルトゥオーゾたちが細々と取り上げてきた以外、ほとんど世間から忘れ去られ、再評価され始めたのは1970年代末、彼の死後、実に90年近く、音楽の歴史の中に埋もれていたのだという。


 一人ぼっちの、消えた天才。まさに、勇吾くんと符合する音楽家だと、その時私は思った。


 勇吾くんは椅子に座ると、小さく、短く息を吸って、鍵盤に指を落とした。


 飛び跳ねるような歯切れのいい音符が両手の幅を狭めて、彼が両腕を交差させると、狭い音楽室の中に、低いどよめきが起こった。


 狂ったように速い。


 スクリーンに映るコメント欄は、一瞬、動きを止めた。


 「別格」


 と、誰かが書き込んだ。


 それに反応するように、またぽつりぽつりと動き出す。

 「これは悪魔」

 「鍵盤見てない……」

 「鬼!」

 「変態でしょマジで」


 炭火がぱちぱちと弾けるような、硬質で煌びやかな響きが、火の粉のように散っては消え、時々、その熱に耐えかねた岩が割れるような、硬く重い大きな音が鳴る。


 勇吾くんに触発されて音楽を聴くようになった私は、ショパンとリストが、19世紀という同じ時代の、パリという同じ場所で交流した2人とは思えなくて驚いたけど、アルカンの音楽もまた、同じ時代、同じ場所に生きながら、そのどちらとも違った。


 ショパンのように、ことさら感情に訴えかけるような揺らぎもなく、とんでもなく技巧的なのに、リストのように「ここで沸け!」というライブパフォーマンス的なタメもない。ずっと速くてずっと技巧的なまま、色だけを変えていくような幾何学的な音楽で、言うなら、リストの時代に蘇ったバッハみたいだと思った。


 私が感じたこの印象を勇吾くんに話すと、彼は私に言った。

「お前は、すごい感性を持ってる」


 私がすごいんじゃないよ、と私は心の中で呟いた。音楽を知らない私にも、そう感じさせた勇吾くんのピアノがすごいんだよ。


 だから、やっちゃえ──!


 音楽がふっと明るくなって、とてつもない重さと熱量で勝利を歌うような分厚い和音とメロディを弾きながら、彼は確かにこちらを見て、笑った。


 それだけのことで、私はこの先も戦い抜けると思った。


 アルカンの『スケルツォ・フォコーソ』は、アルカン自身がとても速くピアノを弾けることや、そういう音楽を書けることを自慢しているのとは違う。


 その音楽をきちんと弾けるピアニストの手にかかれば、大道芸的な(おびただ)しい音符の羅列であるということを超えた向こう側に、音楽家としてのアルカンの心がちゃんと見えるのだ。


 それは誰かを励ましているように、私の耳には聴こえた。


──「あなたの心と魂に、熱い炎が灯されますように」──



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